人格者たれ・穂高の小さな私塾【longingly8さんの健康管理カラダカラノート】

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08年07月25日

人格者たれ・穂高の小さな私塾

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人格者たれ・穂高の小さな私塾 画像1 人格者たれ・穂高の小さな私塾 画像2
写真①:井口喜源治
写真②:研成義塾創立当時の禁酒会グループ

★穂高の小さな学校

 明治の終わりから昭和の初めにかけて、信州・穂高の田舎町に研成義塾という、小さな私塾がありました。
 教師は一人、その名は井口喜源治。

 研成義塾を訪れた内村鑑三は、
 「彼の志は蝶ヶ嶽の花崗石(みかげいし)より硬く、その精神は万水(よろずい)の水より清い」
 とたたえて喜びました。

 昭和13年、喜源治が亡くなる年まで続いた義塾の卒業生は800名近くにのぼり、ここから
 彫刻家の荻原碌山、清沢冽(朝日新聞の自由主義評論家)や東条氏(ワシントン靴店店主)など、評論家、実業家、芸術家、学者

 として名の知られた人もいましたが、多くは地域にとどまり、謙虚・誠実・勤勉な文明人としてその一生をおくりました。
 
         ◇ 
 
 井口喜源治を支えたものはまさしく、
 ・経済的には相馬愛蔵であり、
   相馬愛蔵は、親友のために研成義塾という私学校を村に起こし喜源治をその塾頭にし、
   キリスト教的教育に没頭できる道を創った。明治31(1898)年11月7日であった。

 ・精神的には内村鑑三でした。
   内村鑑三は何度も義塾を訪ね講演などを行い、喜源治に深い理解と高い評価をおくった。

 研成義塾には、主唱者として臼井喜代、相馬安兵衛、井口喜源治の3人の名が記されており
 6本の柱が据えられている。

 1、我が塾は家庭的ならんことを期す
 2、我が塾は感化を永遠に期す
 3、我が塾は天賦(てんぷ)の特性を発達せしめんことを期す
 4、我が塾は宗派のいかんに干渉せず
 5、我が塾は新旧思想の調和を期す
 6、我が塾は社会との連絡に注意す 
 
 研成義塾の理念の一つ「感化を永遠に期す」は、教育は決して押しつけではないことを云っている。
 
 井口は「えらい人になれ、成功者になれ」とは決して言わず、「人格者たれ」と言って
 「自分で見、学び、自分で覚えるというやり方」を指導の基本方針にした。
   (教え子の一人、中島武講演「井口喜源治先生の教育について」)

 やはり教え子の1人の斎藤茂(「野の哲人」と称された農民)は、こう書き残している。
 「むずかしい言葉ではない。『よい人になれ』というのだ。(中略)口も筆も手も、すべてこれだ。しかつめらしい論説はしない。
 まわりくどい註釈はぬきで、単刀直入に『汝よい人となれ』と来る。これだけだ」(「研成義塾と井口先生」)

         ◇

 明治三十四(1901)年9月、内村鑑三(キリスト教思想家)が研成義塾に招かれ、生徒たちに三度講話をしたが、
 内村はその感動を新聞「万朝報(よろずちょうほう)」に掲載した。

 「南安曇郡東穂高の地に研成義塾なる小さな私塾がある。若(も)し之(これ)を慶應義塾とか早稲田専門学校とか云(い)うような
  私塾に較べて見たならば実に見る影もないものである。

  (中略)然し安曇の研成義塾は小なりと雖(いえど)も、全く平民と日本人との力に由(よっ)て成りし学校である。
  余は小にして大なる此(この)義塾を信州の地に於て発見して心窃(ひそか)に信州万歳を絶叫せざるを得なかった」(「入信日記」)

         ◇

 明治34年は、20世紀の幕が開き、日本は国家主義体制を強め、日露戦争に向かう年。木下尚江や幸徳秋水、片山潜らが
 社会民主党の結成を目指すものの禁止され、足尾鉱毒問題を追及する田中正造が国会活動を見切り、天皇直訴を敢行した年である。

 こうした社会状況にあって、井口は国家主義教育の支配の及ばない、独自の教育を実践した。
 どんな圧力や非難にも屈しない意志、信念、情熱があった。

 井口は等々力町(現・穂高町)の半農半商の家に生まれ、
 県尋常中学松本支校(現・松本深志高校)から明治法律学校(現・明治大学)に学んだ。

 在京中から内村、巌本善治ら宗教家、教育家の感化を受け、わが国の教育制度の欠陥に気づいて人格教育の必要性を感じていたという。
 それが東穂高禁酒会を経て研成義塾になるのだが、周りの協力者とともに、強い精神の支えがなければとても続けられるものではない。
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 → 教育とは『汝よい人となれ』に言い尽くされているように思う。




★歩数計
 ウオーキングは根強い人気がある。歩数計で簡単に運動量がわかるのが魅力の一つだ。
 昔の歩数計は腰につけるものだったが、今やポケットやかばんに入れたままでも働く。国内で年に300万~400万台売れている。

 日本初のウオーキング向けの歩数計は、65年に山佐時計計器(東京都目黒区)が発売した。
 主な部品は振り子とバネと歯車。一歩一歩の動きと、上下方向に揺れる振り子の往復運動が一致するようにバネで調節し、

 一歩につき一つずつ歯車を回すしくみだった。歩数は時計のように針で文字盤に表示され、電池も必要なかった。
 やがて、振り子の端につけた磁石で磁力スイッチを動かして歩数を数える方式になり、表示もデジタルになった。

 歯車と針は消えたものの振り子は残り、カチッカチッと音がした。
 前後左右に傾かないよう腰にきちっと固定しなければならず、乗り物の揺れまで数えてしまうのが欠点だった。

 そこで登場したのが加速度センサー内蔵の機種だ。
 振り子のかわりに、ひずみに応じて電気を生じる圧電素子を振動板にはり付け、しなり具合(加速度)を電気信号の波に変換する。

 二つのセンサーを直角に並べれば上下と左右の動きを検知できるので、多少は傾いても正常に働く。歩数計はついに腰から解放された。
 難しいのは、センサーがとらえた加速度の波形が歩行によるものかどうかの判定だ。

 「同じ人が同じように歩いても、身につける場所によって波形はぜんぜん違う。意外と奥が深いんです」
 と山佐時計計器の伊藤慈貞さんは言う。

 このタイプの歩数計には、波形をもとに瞬時に歩数を数えるプログラムが組み込まれている。
 測定の精度に直結するだけに、その詳細は各メーカーとも秘中の秘で、ノウハウを競いあっている。

 96年に加速度センサー式を最初に発売したオムロンヘルスケア(京都市)の橋野賢治さんは
 「いろんな場面の加速度を調べまくりました。電車の路線ごとに波形が違ったり、車ででこぼこ道を走ると
  あたかも歩いたような波形になったり。苦労しました」と話している。(安田朋起)

   ◇

 歩数計の代名詞である「万歩計」は、山佐時計計器の登録商標。
 デジタル表示の歩数計が登場する前で、まだ小さかった市場をほぼ独占していた84年に取得した。

 今では海外でも知名度が高く先に別の企業が登録していたりで
 当局から「一般名詞なので商標と認められない」と登録を却下されたりした国もあるそうだ。
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 → 私の歩数計は CITIZEN 製で14日分のデータが蓄えられる。
  早足で10,000歩/日を目安にしている。


 
 
★エアコンを切った方が燃費が良い?

 エアコンオフの方がエンジンが軽く回る(燃費が良くなる)ことになります。
 注意点としては、長期間に渡ってエアコンを使用しないと、コンプレッサーの構造上の理由で
 トラブル発生の確率が非常に高まることです。

 そのため、手動でエアコンをオン・オフするスイッチを廃止しているクルマがあるほどです。
 また、今回のご質問からは少し離れますが、エンジンへの負荷を嫌ってエアコンを使わず窓を開けて走行するというのは
 空力的に非常に不利になりますので、燃費だけを考えるのであればメリットはほとんど無いでしょう。
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 → 「空力的に非常に不利」とは知らずに、窓を開けて走行していた。



★7月25日の出来事:1998年「和歌山毒物カレー事件」発生。
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 → 楽しい夏祭りが一瞬に悲劇の舞台に変わってしまった、むごい事件であった。



★何らかの運動:ヨガ90分

【記録グラフ】
何かの運動
90分
何かの運動(分) のグラフ
睡眠時間
6時間
睡眠時間(時間) のグラフ
 
コメント
ブルドッグ 2008/07/25 22:38
研成義塾の話は知りませんでした。
これくらいの気概のある人と理解者が会って初めて成立するのが良くわかります。
「卒業生の多くはその地にとどまり勤勉・謙虚・誠実な文明人として生きた」・・
に全てが表されているし、教育の本質が具現されていると思いました。
めぱんだ 2008/07/26 00:55
どんな圧力や非難にも屈しない意志、信念、情熱云々…
このような教育者がおられたら、大分のような事件は起こり得なかったでしょうね。
この少しあとに幸徳秋水らが「大逆罪」で処刑され、感化されていた
石川啄木が「この時代は人間を閉塞させている」と嘆いた評論が出版されていますね。
なにか今の時代を表しているような「閉塞」感とは経済格差、社会格差でありましょうか。
その時代の青年層の希望なき現状を嘆き今も愛唱されている歌の数々は相通ずるものが
あります。
longingly8 2008/07/26 01:32
ブルドッグさん
 研成義塾や井口喜源治は長野県が教育県と云われる一因となっているように思えてきました。

 国の黎明期には純粋で志の高い人々が出現しますね。
 現在は経済界・教育界・公僕までも金銭の奴隷と化して寂しい限りです。

 「子育てをし、仕事通して社会に属し、親を看る」人としての義務を果たしたならば

 次こそは誰のためでなく
 「志は蝶ヶ嶽の花崗石より硬く、その精神は万水の水より清い」となれる何かを掴み
 無慾で自分の全てを注いでみたいですね。それは「実に見る影のない」もの程良い。
 伊能忠敬氏も54歳からでした。 
 自身の人生を振り返った時に、せめて悔いの残らない生き方をしたいと思ってます。
 
ブルドッグ 2008/07/26 08:01
longing8さん
まだまだ心身ともに若い。大いに頑張りましょう。自分を磨くために!
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