longingly8さん
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08年09月05日
反骨でっせ 寄席でっせ |
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写真 桂三枝さん、於:天満天神繁昌亭 ★反骨でっせ 寄席でっせ asahi.com 人を笑かすなりわいの話を、上方にひもときましょか。 落語の祖は江戸時代の京都の寺の住職、安楽庵策伝(あんらくあん・さくでん)でっせ。 今の形の漫才が生まれたんも、大阪の寄席やってんから。
大阪の笑いは大阪弁の笑い。その大阪弁が禁じられる未来を描く落語がある。 桂三枝(かつら・さんし)(64)の「大阪レジスタンス」だ。 「アホちゃいまんねん、パーでんねん」は「バカじゃないんだ、パーなんだ」と言い換えさせられる。 抵抗運動の地下組織ができるが、リーダーの天ぷら屋は捕まって銃殺刑に。 その死を乗り越え、大阪は日本から独立し国連に加盟、大阪弁の復活とともに元気を取り戻す。 三枝はこの中で、郷土の文化への愛を、標準語で表現しきれない、やわらかな、奥行きのある大阪の言葉に託した。 「しんどい」「はんなり」「ぼちぼちいこか」。国が言葉を押しつける薄ら寒さも伝えながら。 ◇ 1943年の夏、堺市に生まれた。生後11カ月で父は病死。母と暮らした寮は8歳の冬に大火事で全焼し、 旅館の住み込みになった母とは、別々の暮らしに。寂しさから、遊びに来た友だちを物まねや冗談で楽しませてひきとめた。 ラジオのコメディー番組の公開録音を見て、人を笑わす仕事にあこがれた。
高校時代は素人漫才、関西大では落語研究会。23歳、落語家の内弟子生活を始めると、 ラジオ出演をきっかけにトントン拍子に名が売れる。大忙しになっても、大阪にとどまった。「大阪が一番という気概があります」。 語り継がれた古典より、自ら作り演じる落語にこだわり、200近い作品を送り出す。真骨頂が地元に根ざす「大阪レジスタンス」だ。
だが、その大阪に戦後、毎日開かれる上方落語専門の寄席はなかった。お笑いの劇場は、漫才が中心。 若手の育つ場がないと、落語に未来はない。三枝は03年7月、上方落語協会長になると、寄席づくりに乗り出す。 ◇ 日本一長いと言われる大阪・天神橋筋商店街に、街おこしで知られる土居年樹(どい・としき)(71)がいた。 同志社大在学中に父が急死、中退して陶器店を継いだ。 商いと文化を結びつけ、27年も前に商店街の空き店舗にカルチャーセンターを開いた。 小さな寄席のための店舗を探す三枝と、04年1月、喫茶店で会った。三枝は言葉を選んで商店街の活性化についても語った。
「きまじめで繊細、一緒にやれそうや」。土居は真剣に考えた。 「天神さんに相談してみたらどやろか」 地元のシンボル「天神さん」こと大阪天満宮、その宮司、寺井種伯(てらい・たねのり)(74)に会いに行く。 「どうぞ駐車場の敷地を使って下さい。お金はいりません」 話を持ちかけた土居の方が驚いた。「ほんまかいな」。駆けつけた三枝も600平方メートル近くもある広さに仰天する。 あたりには戦時中まで、演芸小屋があった。「天神さんの裏へ行くのが楽しゅうてね。芝居を見たり、落語を聞いたり」。 実は寺井も、そんな思い出話をお年寄りから聞かされ、お参りがてら家族で楽しめる場を復活させたいと夢に描いていた。 亭内のちょうちんに名前を入れます、という建設資金集めに約2億4千万円が集まった。
06年9月15日、216席の「天満天神繁昌(てんまてんじんはんじょう)亭」の灯がともる。 裏方であいさつ回りに奔走した土居は帰宅すると、妻にしかられた。大事な結婚記念日なのをすっかり忘れていたからだ。 でも「あんなにうれしかった日はおまへんな」。いま、テレビを中心にお笑いの発信は東京に偏っている。
その中で、引き寄せられるように大阪の芸人、商人、神社が結びついてできた繁昌亭は連日、大阪弁の響きと笑いに満ちている。 「反骨精神の象徴やないかと思うんです」。三枝にはこの小屋とにぎわいが、「大阪レジスタンス」に重なる。 ____________________ → 人生には舗装した道はいらんなー。 デコボコ道が人をつくりおまへんか。 (ちょっと違いますか?)
★抑留を耐えた宇治十帖 asahi.com シベリアの捕虜収容所で、寒暖計は零下43度まで下がった。極限状態のなか、国文学者藤村潔(ふじむら・きよし)(86)の 胸ポケットには、シラミよけの薬品と一緒にいつも『源氏物語』があった。
『源氏』全54帖(じょう)は前半が主人公の光源氏(ひかるげんじ)の一代記だ。 最後の10帖は出生の秘密をもつ子の薫と孫の匂宮(におうのみや)に、3人の宇治の女君を配した悲恋の物語で宇治十帖とよばれる。
藤村は宇治十帖が好きだった。「まとまっていて何となく寂しいから」1943年、朝鮮の大学から学徒出陣。 翌年、旧満州の軍隊から親に送金を頼んだ。「お札は、私の蔵書の中の岩波文庫にはさんでください」。 そう指示したのが宇治十帖を収めた1冊だった。
45年敗戦。シベリアの収容所を転々とする。「帰国できるのか。日本はどうなったのか」。飢えと寒さに苦しみ、不安でならない。 『源氏』だけは手放さなかった。拾い読みすると、みやびな言葉に心がなごんだ。 文庫本はソ連兵によく取り上げられた。たばこの巻紙になるから。「日本で読まれている、とても古い物語なんだ」。 ロシア語で懸命にかけあって取り戻す。地面に男の姿を二つ、女の姿を三つ描いて、内容も説明した。 ある日、1人の兵から質問される。「薫ほどの貴公子がなぜ恋人を次々に失うのか?」。藤村は答えられなかった。 ◇ 50年春、念願の帰国。藤村はハバロフスクの収容所を出るとき、6年間もち歩いた文庫本を厳寒の地に残る友人に贈る。 「慰めの言葉の代わりにいちばん大切なものを渡したくて」。友人は56年に帰国、会う機会もなく逝った。本のゆくえはわからないままだ。 香川県で高校教師になった。シベリアでのソ連兵の質問が研究の原点となる。 主著『源氏物語の構造』は宇治十帖の構想を精緻に論じている。やがて札幌の藤女子大に移り、教え子に歌手中島みゆき(56)がいた。 「軍隊では研究から引きはがされた喪失感を、収容所では国が滅びた喪失感を『源氏』が埋めてくれました。 人生で最も危険な時期を私は宇治十帖にすがって生きた気がします」 ◇ 国文学者秋山虔(あきやま・けん)(84)は56年、見ず知らずの藤村から送られてきた論文集に驚いた。 「高校の先生がこれほど本格的な研究を」。のちに『源氏物語の構造』出版の労をとり、大学の職も紹介することになる。 シベリアで藤村が『源氏』にすがって生きていたころ、秋山は『源氏』を否定したくてならなかった。 旧制高校生のとき、日本が戦争になだれこむ動きに背を向け、京都の自然や詩歌のなかに逃避した。 学徒出陣の軍隊から東京の大学へ戻ったときは虚脱状態だった。
「叙情の世界におぼれた反動で、『源氏』に代表される日本的な美意識に反発したんです。 『源氏』を否定しなければ立ち直れない。そう思い詰めて」しかし、読めば読むほど『源氏』に圧倒され、組み伏せられた。 戦後を代表する源氏学者のひとりとなる。「人間の運命はわかりません」。藤村の人生にも通じる感慨である。 東大名誉教授、紫式部学会会長、文化功労者。功成り名遂げた秋山だが、いま意外な悔恨の言葉を口にする。 「自分の生き方を検証するために『源氏』を研究した藤村さんのように、もっとひたむきに勉強したかった。 私はまだつかみ切れないんです。紫式部が冷徹なまなざしで見つめた、人間の虚無と闇の世界を」 『源氏物語』の存在が初めて文献にあらわれて、今年でちょうど千年。この世界最古の長編小説は今なお私たちの心をとらえる。
★小学校1年生の「なぞなぞ」 今、なぞなぞを楽しみにしてくれてます。毎日五問ずつ出すことにしてます。 これ案外日本語の勉強になると私は思ってます。今までの最高傑作紹介します。
【問題】お母さんにくっついてばかりいる「ぼう」は、何ぼう? というのです。 Aちゃんが手を挙げました。 「はい、Aちゃん」 「しぼう」 笑えるでしょう。正解は「あまえんぼう」なのですが、「あかんぼう」でもいいですね。 ___________________________ → 子供って大人をよく見ていますね、あるいは、よく聞いていますね、かな。
★9月4日の出来事 1943年 - 上野動物園で空襲に備え動物を薬殺。 1994年 - 関西国際空港開港。
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