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サークル退会者
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2009-08-24 02:43 |
初めまして、ですね。
今までの人生についてです。
私には妹がいて、父も母も血がつながっていて、小学校に上がる前位までは父方の祖父母と同居していました。
その当時は、特にお金に困る事もなく、私はピアノを習っていて、そんな日がずっと続くと思っていました。
しかし、些細な事で父と祖父がケンカし、そのケンカを見た私はショックを受けて詳細を覚えておらず、男性不信&大人に対する漠然とした不信感を持ちました。
父と祖父が殴ったり、暴言(「お前なんか死んでしまえ」と言ったと聞いています)を吐いたりしていたようです。
警察も呼んだらしいです。
そのケンカの時私は、「男は女をいじめる最低なものなんだ」と思いました。
当時私は4~5歳と思われます。
田舎の家だったので部屋がたくさんあるしそれぞれの部屋は広く、祖父母とは部屋を別にして生活していました。
私がトイレや飲み物を飲むために部屋を出る時は父から「じいちゃんのとこ行ったらだめだよ」と言われ、祖父母のいる部屋の前のダイニングキッチンに行くと祖父に「お父さんのとこ行ったらだめだよ」と言われ、私は「自分の居場所はここにはない」と思いました。
自分の居場所と思える場所は、家から少し離れたところにある畑でした。
ピーマンやナス、ねぎ、トマト等色んな野菜が植えてあって、植物だけは私を受け入れてくれました。
その時、植物が好きになりました。
小学校に入る時には雇用促進住宅に引っ越しており、ケンカを見ることはなくなりました。
小学校2年から4年は、父の仕事の都合で引っ越しました。
今住んでいる県に戻ってきた時、1年生の時通っていた小学校に通う事になりました。
しばらくして家を建てることになり、何ヶ月かして家が建ちました。
「家を建てました」というお知らせのはがきを知り合い・親戚等に送ったのですが、父方祖父の怒りに触れて祖父は家に来ました。
祖父は転勤の期間が終わって戻ってきたら同居するのだと思っていたようで、父は祖父に家についての話をしていなかったようです。
祖父は(カメラ付き)インターホンを押しているけど、わざと写らないように立ち、父は分かっているくせに「どちら様ですか」と言いました。
これが何回も続いた後、祖父はドアを蹴り始めました。
今も蹴ったあとが残っています。
父は交番に電話をかけ、「知らない人がドアを蹴っている」と言うのです。
しばらくして警察官が来て話を聴いて、祖父は帰ることになり、両親と警察官の話し合いがありました。
まだ昼間だって言うのに母に「お風呂に入ってなさい」と言われ、従いました。
聞き間違いの可能性もありますが、警官が「このような家庭に育ったお子さんは将来非行に走る」みたい風に言っているのを聞いてショックでした。
それから少したった時、私は宇宙に興味を持ちました。
「天体望遠鏡がほしい」と言うと、父は「昔買ったの持ってるから今度取りに行こう」という事に。
父方祖父母の住む家に取りに行く事になり、望遠鏡を車に乗せ終えて帰ろうと思った時、父が来ないのをおかしいと思い家の中に行きました。
祖父が父に向かって何か言っていましたが父は何も答えず。
それは何十分にも感じたけど、何とか家に帰りました。
中学に入ると私はクラスになじめませんでした。
吹奏楽部に入りましたが、嫌がらせがあり1ヶ月で辞めました。
原因は私にもあります。
緊張して動けなくなるのと、今ほどではないけど目が悪いのにメガネをかけず、顔が覚えられず、誰が誰だか分からず挨拶をしなかったからです。
声がコンプレックスだったので、分かる人には会釈をしたのですがそれでもダメだったようです。
嫌がらせする人は私に挨拶や会釈はしない代わりに睨みつけてきました。
私は変なあだ名を付けられるし、部活が終わると嫌がらせする人達は部の1年生全員呼び出してありえないくらい大声で挨拶の練習をさせたり、「視線で気付け」と言って背後からの視線で気付かせる練習(??)をさせました。
その反省会もある時顧問の先生にばれて、「早く帰りなさい」と先生が言ったため難を逃れました。
中学最初のテストで、私は約300人中上から25番目の成績をとりました。
勉強癖が付いていないため授業を聞いただけで受けたものだったのですが、嫌がらせする人の一人に何番目か聞かれ「25番」と答えたところ、私に冷たい視線を浴びせました。
勉強していたらもっと番数が良かった可能性もありますがこの件で学習意欲をなくし、成績は落ちました。
やめた後、嫌がらせをしなかった人は「何でやめたの」と聞いてくるので「フルートのレッスンがあって、それに行けないから」と答えましたが納得いっていないようでした。
その子達もおかしいと思っていたようです。
冬、掃除が終わった時に嫌がらせする人達とその友人の3人が私を取り囲み「スカート短い」と文句を言ってきました。
その子達は女の子なのですが、彼女たちも校則通りかというと違うし、私は身長が伸びたために丈が短くなっただけで故意に短くしてはいませんでした。
私が言う事全てに文句を言い、馬鹿にしていました。
2年になって、その3人のうちの一人と同じクラスになりました。
そこでもなじめず、(給食を食べる時には班ごとに机を向かい合わせて食べるのですが)給食中男の子に「鳥越さんって、あまりしゃべらないよね」と言われじろじろ見られました。
その時私は、視姦されているような、とにかくとても気持ち悪く感じました。
6月頃登校を渋るようになると、何で行かないのかと母に言われ、この事等を話したのですが「その子あんたの事好きなんじゃないの」と言われ傷つきました。
嫌な気持ちを分かろうとしてもらえず、誰も信用しませんでした。
不登校になると、両親共に「学校に行け」と言いますが私は何が何でも行きませんでした。
母は私を精神科・診療内科・神経科を扱うクリニックに連れて行きました。
母が先生に色々話した後、先生は母に「学校を休ませて下さい」と言いました。
その時、私はつい先生の顔を見ました。
それまでずっと下を向いていたのです。
この人だけは私を助けてくれるのかもと思いました。
それから2年の最後までほとんど学校に行きませんでした。
3年になってはじめは学校に行きました。
でも、壁際の友達の席の所にうずくまり、恐怖で動けませんでした。
クラス中の人が怖かったのです。
緊張したまま授業を受けて、合唱コンクールの練習も少し参加。
しばらくたって、再び不登校になりました。
不登校になってからちょっと経ったときは、いわゆるカウンセリング室登校をしました。
時々クラスの人が来るけど、今まで「雛ちゃん」と呼んでいた人は「鳥越さん」と距離をおいた言い方になってました。
初対面の人にはなぜか「雛ちゃん」と呼ばれましたが先生が裏で気を遣っているようで嫌でした。
クラスの人は信用していなかったので、冷たくあしらいました。
その時テーブルクロスを作っていたので、ずっとミシンに向かっていました。
いつだかは忘れましたが、部屋の物をぶちまけたり30cmの竹製定規で腕を思いっきり叩きました(痛すぎなので1回きりです)。
合唱コンクールは何とか出て、卒業式は体育館の後ろで見ていました。
卒業式の日、母は号泣でしたが私は笑顔でした。
高校には、私に嫌がらせする人の友人が入ったのですが、すぐやめていきました。
スカート短いし髪染めていました。
嫌がらせがあったため、今でもギャルと言われる人に対して良く思いません。
高校は不良がいると噂の定時制。
当時女性に対する恐怖心はほとんどなかったのですが、男性恐怖症がひどくクラスにいるだけで体が震えて失神するんじゃないかと思いました。
レベルが低い方の高校だったので、2年まで体育以外はほとんど評定が5段階中の5。
保護者面談で成績表を前に、先生が母に「何も言う事無い」とだけ言って沈黙が続き、終わっていったと聞いています。
3年で物理が4だったり苦手な体育で3と4をとった以外はほぼ5で、詳しい数値忘れましたが評定平均4.5以上でした。
2年の時の変わった先生の変わった物理の試験で100点とか、1年の時の国語総合のテストで毎回90点以上等、成績は上の方でした。
一番悪かったのは、3年の時の私一人しか受けていない物理1の難しい版で56点です。
2年の冬頃に漢検2級を173点で合格したのですが、200点満点でない事に不満でした。
高校は自分が行きたかったところなので、学習意欲はそこそこありました。
高校も無事卒業し、推薦で受かった短大に進学しました。
高校の時の授業で、人生で初めて付き合う子に出会い、進学後付き合いだしました。
進学先は同じ敷地の中の大学と短大(両方工学系、要は理系)です。
私よりも成績の良い彼のおかげでレポートは何とか出せました。
短大では「この子はおとなしくて優しそう」と思った人と仲良くし、さらに2人友達が増え私含めて4人で行動するようになりました。
はじめはとても楽しい関係でしたが、優しそうと思った子が仮面を外したのです。
友達に向かって「お前○○しろ」と言ったり、「(定員のある短大の専攻科の試験問題を見て)この程度の問題なら受からない方がおかしい」等と言うのです。
所属ゼミを決める時も、希望するAゼミが定員4人で5人希望、じゃんけんで決めることになり、その子(女の子)含む3人は勝ち、私ともう一人男の子が負けました。
彼女は以前、「楽なゼミがいい」とか「Aゼミだったら美味しいもの食べられそう」という事を言っていて、ただラクしたいという感じを受けました。
事実、ゼミの研究開始後、研究内容に文句を言っていました。
私はAゼミが植物についての研究をすると聞いたのでここを希望したのです。
男の子と「どうする??」と話していると、彼女はもう一人入れると言いだしました。
男の子と話し合い、男の子が譲ってくれる形で私はAゼミに所属しました。
彼女は「○○君に『ありがとう』っていいなよ」等と無責任に言うので、小声で「ありがとう」と言いました。
本音は「ごめんね」と言いたかったです。
男の子はやりたくもないであろう研究をしたと思います。
研究内容によっては、進学に影響する可能性もあります。
ひどい事言った彼女がした研究は、なぜか譲ってくれた男の子が所属しているゼミの先生が担当していました。
時期は前後しますが、短大に入って2か月たった位にはじめの異変が起こりました。
悲しい事があったわけではないのに泣きたくなるのです。
すぐ治まったのでこれは気にしていませんでした。
しかし、2年になって完全におかしいと思いました。
不幸があったわけでもないのに涙が出て止まらない、新聞読んでも頭に入らない、好きなゲームで気分転換しようと思ってもゲームが面白く感じず義務的に感じる、ダメな人間だと思う、泣きながら寝る…という事が4日間起こりました。
明らかにおかしい、けどうつ病なら2週間続くはず、今はしんどいけどそこまでいかない…と思い、放置していました。
でも、良くなる事はなく、元気になったと思いきや涙が出て止まらなくなる、涙が止まらない時期が過ぎればいつも通りといった状態でした。
この頃、母が「テレビで“睡眠不足症候群”ってあるんだって。」と教えてくれて、ネット上で診断してみようと思いこのサイトに登録しました。
妹は8時間寝ないと睡魔に襲われ、私は9時間程度(今もはっきりしていませんが)は寝ないと正常な生活ができないのです。
当時の睡眠時間は私と妹は6時間程度、日によってはそれ以下だったと思います。
二人とも通学に往復3時間以上かかる学校に通っていたためです。
夏休みである9月に、以前行ったクリニックに行きました。
「抑うつ状態」との診断でした。
うつ病よりひどくはないが治療が必要な状態らしいです。
抗うつ薬等をだされ、カウンセリングも受けることに。
先生からは「進路どうする」と会うたび聞かれ、ある時診断書を突き付けたのですが「(私が就職希望のため、就職についての)募集のコピー渡すから」と言われて理解のなさに嫌になりました。
私の将来について、ひどい事言う彼女は「ゆっくり決めれば良いよ」と言いつつ、私が事情があって働かないことを別の優しい先生と話した後「家事手伝いって、ニートの言い訳だよね~」と言いました。
私だって、お金をたくさん稼ぎたいと思います。
2年から入ったサークルだけが楽しい時間でした。
研究で行けない時が多かったけど皆優しく、酒も強引にすすめない人たちでした。
他大学との合同演奏(希望者のみで3人だけだった)の時(当時はガソリンが180円位)でも帰りは夜遅いので家まで送ってくれるし、本当に優しい人たちです。
地方別の吹奏楽系の部の1泊2日の集まりの時、私は明るく振舞おうと思ったのですがエネルギーを使い果たし、無表情で下を向いていました。
そんな時でも気にかけてくれて、申し訳ない気持ちと嬉しい気持ちがありました。
帰って来てからある先輩に「もしかしてうつ??」と聞かれた時に「短大の人とは違うな」と思いました。
そんな私も無事卒業式を迎えることができました。
お偉いさんのお話が終わると、学科別に学位書を受け取るのです。
教室で受け取っていくのですが、迷惑かけた女の子は成績トップと言う理由で記念品をもらっていました。
記念品の内容が商品券等でなかった事に文句を言っていました。
クラスの人は社交辞令的に拍手をする感じで、「すごいね」と駆け寄る人はいませんでした。
人前で友達に対して偉そうな口叩く人が、勝手に人のレポート見るような人が、トップなんだ??みたいな感じでした。
彼女とは写真なんか撮りませんでした。
この後、大学と短大の卒業者全員で立食パーティがあり、どうしても友達にしたかった先輩(♂)に迷惑にならないように呼び出そうと思いました。
タイミングを逃してしまい、その先輩の友達に携帯電話を借り、呼び出すことに成功しました。
「それって、体育館の裏に来いってやつ??」と聞くので、「そうです!!」と答え、数十分後に会う事になりました。
待っている間、手作りのゴスロリだったせいか、知らない人と写真を一緒に撮りました。
いすに座って待っていると、先輩はスーツで現れました。
とりあえず立って愛の告白(「友達になって」と言うだけで恋愛感情はなく、友人として好き)といきたかったのですが「座って話そう」と言われて座って話しました。
メールアドレスと電話番号を聞いて色々話して2ショット写真撮ってお別れしました。
先輩は県外出身で、就職先も決まっていました。
現在私は最初に付き合った子と別れて、植物と音楽を永遠の恋人&先輩を兄と勝手に慕って心の支えとして生きています。
彼とは嫌いで別れたわけではなく、私がうつで迷惑をかけてしまうからという理由で別れました。
今も精神的に不安定で泣きたくなったり叩きたくなったりします。
そんな私は、温かい家庭を築く事が夢です。
ケンカしてもすぐ仲直りして笑い合う、暴力なんてない、そんな家庭です。
私は心の傷で子供を愛せずに虐待してしまうんじゃないかと不安に駆られるし、そもそも子供を欲しい・可愛いと思えません。
お店等で子供が何かするのを見るたび腹が立つし、殴りたくなります。
本当はそんなことしたくないです。
虐待のニュースを見てものすごく腹が立ちますが、実際私が子どもと接すると危害を加えてしまうと思います。
だから、心の傷が癒えないうちは子供を作らない方がいいと考えています。
子宝に恵まれる体かも分からないし、もし恵まれる体だとしても「欲しい」と思った時に、と思います。
とても長い文章ですが読んでいただきありがとうございます。
こんな私ですがよろしくお願いします。
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2.
SxS |
2010-04-18 16:24 |
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3.
SxS |
2010-04-18 20:31 |
体験談ですか・・・沢山有りますよ・・・
父は母と結婚する時点で愛人が居ました。
5歳から7歳位の時に叔父が酒乱で何回も我が家に乱入しました。
叔父の息子(私の従兄)と叔父の母親が、我が家に逃げ込むから其れを追って来て暴れ私の母や祖母に暴力を振るって、私と私の弟と従兄は、私の祖母に押入れやら、屋根裏やら、に隠れて、時には裸足で外に逃げないといけない状況もありました。うつ病を発病した時にその事がフラッシュバックしてPDST(心的外傷ストレス障害)も併発してしまいました。
10歳の時に父は愛人宅に行ってしまい、事実上母子家庭になり、母は住み込みの仕事をすることになり、家を出ました。そのお陰で、叔父の酒乱に悩まされなくなり、そして、学校でいじめが始まりました。その当時の私は男勝りで、いじめっ子を返り討ちにする事も有りました。そのうち中学生になり、いじめも無くなり、母も正社員としての仕事を見つけ、実家に帰れる事になりました。
高校生の時に体育の教官達からのいじめにあいました。
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4.
SxS |
2010-04-18 22:22 |
高校のいじめとは、私の足の骨が身長の伸びより早かったらしく、様は膝のお皿を骨がゴリゴリ削れはじめて、手術する事になりました。入学してまともに、体育の授業を受けたのは2回くらいで、其れが体育の教官(この学校は先生ではなく、体育の教師だけ教官と呼ぶ??)が気に入らなくて、手術後、ほぼ毎日体育教官室に呼ばれ、大の大人5人に、「気合が足りんから、こんなものに頼らねば駄目なんだ!!」と竹刀で、松葉杖を小突かれたり、「上半身は大丈夫だから、腹筋、50回3本!!」などなどこんな事が、三ヶ月近くあり、ある事件で終止符が打たれました。陸上部の先輩が教官室の入り口で、首吊り自殺をしました。
その口には「怨んでやる」と書かれた紙をかみ締めて・・・・
その後体育教官は教師となり、私は解放されたわけです。でも、出席日数が足りず留年、高校生活三年間は孤独でしたね・・・気になりませんでしたけど・・・
小学校4年生からの友達が居てくれたから・・・
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5.
SxS |
2010-04-19 08:48 |
(この書き込みは書き込みをしたユーザにより削除されました) |