Ayako_kさん
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18年07月10日(火)
『被ばく牛と生きる』『君の名前で僕を呼んで』 |
< プランターの野菜で...
| 午後休む >
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ふと気が付いた。 映画は、休日を待っていると見逃す。 平日にレイトショーをやっているなら、仕事帰りに行けばいいと。 で、仕事帰りに映画館に行った。 見たかったのは、『君の名前で僕を呼んで』。 これが、夜8時20分からの上映。 その間に何か見られるものはないかと映画館の職員に相談したら、いくつか挙げてもらった中から、どうせなら社会勉強になりそうなものをと『被ばく牛と生きる』を選んだ。 『被ばく牛と生きる』は、反原発映画。 政府は、被ばくした牛の殺処分命令を出している。 それに反抗して、商業価値のなくなった牛を飼い続けている人々を追った映画だ。 かれらは、時に静かに、時に激しく政府と戦い。あるものは戦い続け、あるものは白旗を上げた。 その様子を、一定の距離を保ちながらカメラが記録し続ける。 あからさまな武力行使には出ないが、補償金を支給しない、牧場の隣接地に除染土を固めて置くなど、反対農家が根負けするのを待つような政府。 省庁の前に異常が出た牛を生きたまま連れてきて、拡声器で訴える農家。 牛を路上に出そうとする農家を阻止する警官。 マイクを向けられ農家たちに責められて泣き顔の省庁職員。 前回の車載演説では見向きもしなかった都内の人々が、牛を連れてきたとたんスマホを向けて群がり、テレビカメラを担ぐ人々も現れた。 その様子も、1メートルほど離れた距離から坦々と映す。 この映画が、感情に訴える系統のものであるということは分かる。 ただ、これらの牛は、こげ茶色の牛ばかりで、どう見ても肉牛で。 放射能汚染が無ければ生育が進んだ牛から順に、この農家たちによって屠殺されて肉になっていたのではないだろうか。 牛にしてみれば、人に食べられるために殺されるか、放射能汚染されたから殺されるか。 どっちにしても、殺されることに変わりはない。それが、若干早まっただけだとも言える。 だから、冷酷に言ってしまえば、これはあくまで農家の気持ちや、農家の財布のための映画でもある。 一般市民に訴えるのに最も有効なのは、感情に訴えることだ。だから、感情に訴えている。 ただ、この「放射能が無く順調に肥育できていたら、計画的に殺すんだけど、放射能で全頭一斉にすべて殺されなくてはならなくなって商売あがったりで憤っている」というあたりもきちんと農家の口から説明が欲しかった。その点だけが残念な作品だった。他の点は良し。福島の被ばく地帯の現実が見られた。 社会勉強が済んだあたりで、メインの映画。 『君の名前で僕を呼んで』 ひたすら、楽園のような映画。 主人公の美少年と、アポロンのような青年の同性愛の恋の物語。 ボーイズラブ好きな女性とゲイ向けの映画。私は前者なので素直に堪能した。 かれらの恋の様子については、きっと今後数多の他の人のブログに綴られることだろうから、割愛する。 ここでは、気になった点について。 以前、映画『食べて、祈って、恋をして』を見た時に感じ、この間オーストラリア旅行をした時に感じ、この映画でも感じたこと。 それは、現在でも一部の白人だけが世界の楽園に住んでいて、他の人々はこの楽園の住人の召使いという構造であるということ。 『食べて、祈って、恋をして』では、アメリカの女性小説家が、ささいなことに腹を立てて離婚し、傷心のまま1年世界を旅する。 そんなお金がどこにあるのだとも思った。そして、イタリアではただただ飲食を楽しみ、インドでは、「早すぎる結婚」の現実を知り、涙する。 うん、上から目線ね。 そして、東南アジアのとある同年代の女性が、プライドのために離婚したが、お金に困っていると知り、友人たちに呼びかけ、莫大な援助をする。 何様ですか。 映画は、援助によって小さな店を開けたアジアの女性が、娘と小躍りしている絵で終わる。 このアメリカの女性のめっちゃ上から目線の同情ぶりと、ジャブジャブ金を恵んでやって満足げな様子がイラッとさせられた。
オーストラリア旅行をしたときは、白人たちが半分遊んで暮らしているのに、我々よりもよっぽど良い暮らしをしているのが信じられなかった。 ガイドの人は「資源があるからです」と説明していたが、そもそもこの国の資源は誰のものだったのか。この国土は誰のものだったのか。 武力でこの国の先住民を追いやって、自分たちが総取りした結果ではないのか。 この構造、アメリカも同じね。
『君の名前で僕を呼んで』 主人公の少年の母親は、家事をしない。家事らしきことと言えば、趣味の家庭菜園で果物を育てて収穫していることくらいで、あとは考古学者らしい夫とともに、時々訪れるお客様とおしゃべりするばかり。 家事はすべて、住み込みの家政婦のおばあさんがやってくれる。 あと、庭師らしいじいさんが、外回りの用事や車の運転をしてくれているらしい。 物語冒頭で、来客が夫婦に向かって「この家を相続してから、あなたたちは変わった」と言う場面があった。夫婦は笑顔で聞き流す。 考古学者の夫も、一度だけ発掘現場に行ったことがあったが、発掘されたものを見るくらいが仕事で、あとは泳いで遊んでいた。 他の場面では、家にいるシーンしかないので、本当に仕事をしているようには見えなかった。 日本の教授なら、生活のために、家に帰る暇もないくらい講義と研究にいそしまないと暮らしていけないのではないだろうか。 そのあたりも変に優雅すぎる。 まあ、主人公の少年の追憶の物語なのだろうことは想像できるので、そんなものなのかもしれないが。 それにしても、この夫婦は多分、相続財産の中に有価証券などがかなり含まれていて、利息で十分食べていけるのではないかとも思えた。 だから、夫の研究は趣味みたいなのんびりペースだし、妻は家政婦に家事をまかせて遊び暮らしている。 遊び暮らしているので、妻はいつまでも若く美しい。 家政婦がいつも働いていて、顔にしわやしみがあるのと対照的だった。 彼ら夫婦はユダヤ人、と説明がされていた。呼ばれた青年もユダヤのマークのチャームがついたネックレスをしている。 ユダヤ人というのは、「利息」というシステムを発明した民族と聞いたことがある。 つまり、流浪しながら、誰からでも不労所得を取れる技術を開発し、その結果としてこの暮らしがあるのだ。 そして、彼らはイタリアに住みながらも、基本的に家庭内では英語を話していた。 つまり、西洋人誰とでも話ができるように、少年も教育されているのだ。 イタリア語しか話せないのでは、世界に羽ばたけない。 彼らの邸宅に、時々少年と同年代の少女たちが自転車で訪れる。 彼女らは、少年や青年にその肉体を提供することにためらいがない。 玉の輿を狙っているのではないかとも思えた。 ここに、はっきりとした「構造」がある。 英語を話し、利息を魔法のように扱い、不労所得と邸宅を手に入れた「ユダヤ人」。 アメリカから来た、将来有望な大学生。 これらが、楽園の住人だ。 邸宅の召使い、自転車でやって来る美貌と官能的な肉体の少女たち。 かれらは、ろくに英語が話せず、両親の所得も低い「召使い」の側だ。
白人の世界を知れば知るほど、彼らが「征服」と「搾取」に成功した人々であることを見せつけられる。 かと言って、日本人が清廉潔白でなどあろうはずもない。 沖縄の人々や、アイヌの人々に我々が何をしたのか。 私は、何をすることもできないが、そうやって「知って」いくことと、「考える」ことだけはできるので、今後も考え続けていくのだろうと思う。
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