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09年04月06日(月)
今は・・ |
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< 捜したよ
| まだまだ手はある! >
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腎盂尿管がんの母と私達家族は今とても落ち着いています。
2年ほど前から時々血尿に見舞われていた。都度、ホームドクターを受診したようだったが、 「膀胱炎がくせになっているね」との診断。私も2回ほど付き添ったが、「尿検査」を しただけで、レントゲンやCTなどは撮らなかった。 今思えば、総合病院を受診すればよかったが、紹介状を簡単に書いてはくれないし、 狭心症がある為、また検査、検査では体力が心配だったこともあった。
後から分かった事だが、その時から母の「がん細胞」は出来始めていたようだ。
昨年末、血尿が頻繁になってしまった。年末でどこの病院も休みに入ってしまったが、 人工透析を扱っている「泌尿器科」専門の個人病院が開いていたので 家族全員で付き添うことになる。
この時、レントゲンを撮ったのだが、すでに先生は「大きな腫瘍」が分かっていた。 だが、本人にも私達家族にも何も告げず、「正月休み明けにはすぐ大きな病院に行って 検査してもらってください。」と言われた。
正月明け、総合病院で検査、「尿の細胞診」「CT」等詳しく検査して貰う。
それから2週間後「検査結果」を私が聞きに行く。すでに、なんとなくだが悪い予感がしていたので 覚悟はしていたが、私は2~3日前から眠れなくなっていた。家族もみんなその様だった。
「腎盂尿管がん」これがはっきりした病名で右の腎臓は完全に機能していないこと、 ここまでになるには数年かかっている事など説明を受けた。 私はあえて「余命」は聞かなかったし、医師もそれについては何も言わなかった。
父も兄も姉もそして私も、それから大きなおもりがズンと胸の中に持つことになる。 「治療法はありませんし、治療する意味がありません。」若い担当医師は言った。
あらゆる情報を集めようと兄と私は奮闘努力し、それを持って再び総合病院へ。 しかし担当の若い医師は「インフルエンザ」で1週間お休みだったので、 「泌尿器科医長」の年配の医師と話す。
この先生が私達家族の話をよく聞いて下さり、親身になって下さった。 つまり「高齢」という先入観からでは話はそこで止まってしまう。 「そこまでしない」「助かってもあと何年も生きられない」と思う人が多いが 私達は出来るだけのことはしよう、と強く思った。
本人に病名を伏せ続け、本人は毎回の「血尿」に不安を抱き、家族もこんな状態でよいのか疑問に思った。
自立した大人の母として扱うべきではないだろうか? 私達はセカンドオピニオンで慶応病院に出向き、そこで良いアドバイスをもらう。 「年齢でリスクを考える前に、その人の状態を検査しそのうえで結論を出しますから、手術という手もありうる」 「こちらへ来られるには患者さんが大変ですから静岡県立がんセンターの院長が泌尿器のお詳しい先生ですから そちらへ紹介状を持って行かれたらいいですよ」
県立がんセンター院長鳶巣賢一先生に母と兄と私とでお話を伺うことができた。 この時点で母には病名は告げてないので、入口の「がんセンター」の文字を見てパニックにならないか心配だった。
心配をよそに本人は病院の大きいこと、きれいなこと、静かな事、立地が良く展望の素晴らしいこと等 感嘆しきり・・・ モニターの説明を読んでいるので、「がん」の文字に驚きはしないか私はハラハラしていた。 気にする風もなく、名医に診てもらえる自分は幸せだと話している・・・
本当に良い先生に診て頂きとても良かった、何より母に図解いりで懇切丁寧に話して下さり有り難かった。
母は自分の状態が分かり「あとは死ぬだけだぁ~」と、あっけらかんと言ってのけた。 ガンだという事もうすうす感じていたが、子供たちが手を尽くしているのを見て 何も聞こうとせずにいたのではないか・・・
自分の体に何が起こっているのかはっきりし、病名は誰も言わないが、なにも手立てはない事を知り 逆に穏やかな毎日を送れるようになったようだ。
お祭り好きで、昨日は静岡祭りを家人の心配をよそに、「自分で自由に見てきたい!」と付き添いを断り 楽しんできた。
こんなにすっきりした母を見られ、良かったと思っている。
その時が来るまで、私達は何も特別な事はせず、変わらない毎日を過ごそう・・・
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| 【記録グラフ】 |
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