飽食と貧困-その2【buriさんの健康管理カラダカラノート】

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07年12月04日(火)

飽食と貧困-その2

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昨日はなにかに突き動かされてあんなに長い文章を書き連ねたというのに、今日になったらそれがなんだか気恥ずかしくってどうにもこうにも、てへっ、まあそんな自分もたまにはあるのよ..などとゴマかしかけたところ、、

な、な、なんと!
自分の日記(記録ノートって言い方キライ)に初めてのコメントをいただいたのです!それもあの恥ずかしい「その1」に!

なみ。さん、ありがとう!
あなたの書き込みがあれで最後であってもあなたが元気をくれたことはこの日記に書いてずっと取っておきますので安心してくださいね。(なんか言い方ヘン?)
できればドンドンお願いします^^


私はコンサルティング関係の仕事をしていますが、最近ボランティアをしたいという若者が非常に多いんです。
おお、そうか、おれはそんな子が好きだぞ、と思い“何したいの?”と聞くと、“何かそういうリストがありますか?”って必ず返ってくるんです。
そして私「?」...

そりゃ時たま、“私は○○の保護活動をしたいです”と明確な子とか、実際に“○○の恵まれない子供達にご協力ください”とアメか何かを持ってオフィスに直接売りに来るツワモノもいますが、9割がたは“なんかないですかぁ~”的な人です。

そもそもボランティアというのはその精神を尊しとするわけで、すべて自己負担でやってもらうもので、当然ただ働きなわけで、“現地までの電車代は出るんですかぁ?”などの質問が出てくる即席ボランティア君達の途中挫折は明らかなんです。

じゃあなぜそれらの子達がボランティアをやりたいと当初思い立つのかですが、その背景には日本の長い不景気時代があります。
不景気だから人と違う経歴を持ちたい、不景気だから老人の面倒でも見る、不景気だからインターンシップをして職歴を作る、といった、“ボランティアをすることで自分の経歴に花を添える”という考え方があるからのようです。
もちろん義憤に立ち上がってそれをしようとしている人もいることは否定しません。

しかしそういう人も含めほとんどの人が、ボランティアをやった後で証明書が出ますか?という質問をする事に関し、自分は複雑な気持ちを抑えることができません。

またこういったことを入学や就職の評価に取り入れる学校や会社がたくさんあることも彼らの行動に拍車をかけることとなっている。

そもそも、私ボランティアしてますっ!って言うものでもないと思うのです。

100歩譲ってまあそういったことをやるだけましとしましょう。無給で働く人達が必要なのは明らかですので。
しかしそういう人達ってやはり責任感が無いというか、そもそも覚悟を持たずに来たって言うか、たいしたこともできず周りに迷惑をかけたあげくフェードアウトしていく。
でも履歴書にはボランティアの文字が光る。

その1で書いた自浄作用とも違う、もちろん純粋な慈悲の心とも違う、言うなれば見返りをハッキリと求めた上での慈善行為。

是非を問うわけではありません。
それでもこの写真の子達は絶対に必要としています。


どうしても長くなってしまう。
いらんことまで書いてるようなきもするし。
この後また呼ばれているので続きはまた。

コメント
なみ。 2007/12/04 18:43
見返りを求めた上での慈善行為…
悲しいですね。
人のために何かすることで幸せを感じるみたいな風に育てられました。
誕生日は両親に感謝する日と教わったわ(笑)
人のためにしたいからする!したいからするだけで、その証明がでますかってなんでしょうね。
なんだかまとまりのないコメントでごめんなさい。
ナーラックトンヤイ 2007/12/04 23:40
はじめまして
ナーラックトンヤイといいます。

>見返りをハッキリと求めた上での慈善行為。 
ん~、見返りを求めようが、求めまいが現地へ行って現状を見たら考えが変わるかもしれません。

自費で現地ガイドが行きたくないような場所に行ってみるのもいいでしょう。(あくまでも自己責任で)

世界には8億人が飢餓に苦しんで、10億人が肥満に苦しんでいます。飢餓と飽食が逆転しました。
世界の食糧の8割を先進国で消費している社会。

そんな時代に育ってきた彼らなんです。

 私が行ったタイやインドのボランティアでは、オチャラケた大学生や若者も参加してました。初めは食べ物を粗末に扱ってました。現地NGOの目もあり彼らの残飯をJ君と二人で食べつくしました。現地の方と触れ合う中で日が経つに連れ食糧の大切さや命のに対しての考え方も変わっていきました。
 そんな大学生や若者もタイのラオス国境の山岳民族と4時間もサッカーをしました。炎天下での国際試合。中には「海外ボランティア」と自慢する者もいました。でも、彼らでなければできないこともあります。

インドの街中で貨幣価値が混乱してルピー札を“こども銀行の紙幣”のように扱って群衆に囲まれたこともあります、物乞いの子どもに飴玉を渡して、物乞い集団に襲われかけたこともあります。
でも、帰りの飛行機の中で泣きながらコルカタの現実を伝えて行くんだと決意した青年もいました。

無関心ではないことは確かだと思いますが・・・・。

flo 2007/12/16 20:47
無償の愛は、覚悟ないといけません。
何でもそうですが、パートの仕事も結婚生活も、それなりの覚悟がいるのです。
最初は、気楽にボランティアと、思っていても、いざ始まると、こんなはずではなかった、と思うのは世間知らずも含めて仕方がないのかもしれません。平和国日本で育ったのですから。
でも、何かを感じて、学び取る事ができたとしたら、それは見る目、考える頭を持った切っ掛けを作ったと思います。そこから分かれ道で、学び取る人と、また、お気楽な道を選んでしまう人に別れるでしょう。経歴にボランティアと書いても、中身のない経歴ですから、どこかで泣くはめになる、そのぐらい世間は厳しい。人は難関を努力して突破しないと、何度でも同じ様な事が繰り返しやってくる・・・私は、そう思いますよ。
buri 2007/12/16 21:19
pino9さん、驚きました。
全部読んでくださっているんですね。

日本に育った人が考えるボランティアというものが違うのかもしれません。
以前、阪神大震災の時、被災地に私の後輩がボランティアに行きました。
彼はそのとき、NTTが被災者の方々がその家族に無事を伝えるために用意してくれた世界中どこでも無料でかけられる電話から陽気な調子で私に電話をしてきました。“これタダなんですよ~”てな感じで。

正直ボランティアというものはリスクが伴うものです。
お金をもらわず労力を提供することはリスクではありません。
上記の彼は被災者のために国が用意した配給を食べ、布団をもらい、世界中へ無料電話をかけている。
そんな彼も義憤に燃えて現地に自腹で飛んだ一人です。
flo 2007/12/17 09:08
彼が、もっと歳を重ねた時に、気が付くのではないでしょうか。
無料電話をしてしまったお気楽さの恥じに気が付けば、そこで成長するのですけれどね。
現地に飛んで実際に災害を見て来た、体験してきた、と言う事が大事だと思う。
彼の見た映像は、生涯忘れる事はない現実です。
きっと彼なりに何かを学んだと信じます。
観光に行って記念撮影したバカ者より、現地に飛んで無料電話をかけたお調子者でも、汗水たらして動いたであろう彼に好感が持てますよ♪
buri 2007/12/17 13:08
ナーラックトンヤイさんも同じようなことを言ってましたね。
お気楽にボランティアを探しに来る子達にも、もっと気軽にアドバイスをしますか。

今までどうにか彼らをポジティブにして、世界中からボランティアに来ている人たちに恥ずかしい真似だけはしないようアドバイスをしてきました。
でも覚悟の無さに呆れても、やらない片棒を担ぐ必要はありませんもんね。
ナーラックトンヤイ 2007/12/30 12:15
「覚悟」いい言葉です。

阪神大震災の時、私も現地入りしました。
こんなことがありました。
 食糧を配っていると「こんな冷たい飯が食えるか!」とおにぎりを投げつけられた。「俺たちは、温かい飯が食いたいんだ」と。
手を合わせて私を拝んでおにぎりを受け取るおばあさん。
私たちは「おにぎりの山」から賞味期限の切れたものを処分していく。
被災者の皆様のための、おにぎりを毎食、食べ続けたボランティアたち。

それぞれが、お互いの立場を主張している。お互いの立場になって考えられる余裕もなかったのだろうか。

「してもらうのが、当たり前」ではないと思う。
「してあげる」高い立場から見下ろすのも違うと思う。

この体験から「ニーズに合った支援」を心掛けています。


buri 2007/12/31 09:37
お久しぶりです。
また来ていただいてありがとうございます。
実は私もほんと久しぶりにログインしました。

もう今日で今年も終わりです。
あなたのコメントから私のカウンセリングもちょっと変わりました^^

お互いそれぞれの舞台で来年もがんばりましょう!
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