KATSUO1973さん
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11年03月03日(木)
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< 疑心暗鬼と信頼
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【今日のできごと】 人は色々なものを物心ともに抱えているものです。 でも悪心も、良心もすべて、万物をおつくりになった神はご存じであり、 私たちは、それこそ神の御手の中に、包容されているものに過ぎないのです。
経営学、自己啓発論の中でこのような定義があります。
人罪-いるだけで会社にとって罪な人 人在-会社にただいるだけの人 人材-会社にとって何らかの貢献をしている人 人財-会社にとって財産となるような高い貢献と利益をもたらしている人
だそうです。 これは友人、知人関係でも言えるかもしれません。 でもこの定義って、人をもの、手段として定義してますよね。 経営学や、自己啓発的には正しいともいます。
でも私は、大学の法哲学の外書購読で読んだ本の中で、イマニュエル・カントの「啓蒙とは何か」の一節が思い浮かびました。。 「人は他人を手段として認識し、用いてはならない。なぜならば人はそれ自身が目的であり、自身がそうであるように、人に対してもそう認識しなければならない」 と言う趣旨のことが書かれていました。
私は、クリスチャン(ローマカトリックで、2004年に洗礼堅信を受けてます。)ですので、 この人を定義する主語は、他者や会社とは理解せず、神や仏と見ると、ネガティブなイメージでなくなるなぁと、分かりました。
人罪-人は神のみ前ではすべて何らかの罪を抱いているものです。 人在-旧約聖書の創世記で、神は人を創造された時に祝福されたのです。存在として是とされているのが私たちです。 人材-人は神から見れば神のみ旨をかなえるためのそれぞれ必須な手段です。それは聖アッシジのフランシスコの平和の祈りの中にみられる、 「私を平和の使いにしてください」というように、全ての善なる存在の根源である神から派遣されている使徒なのです。 人財-新約聖書にタラントンの例えがあります。人はそれぞれ神様から頂き物を頂いています。そしてそれをそれぞれが善きことの為に使うように 求められて授けられたものです。しかもその使い方は人に自由意思というものに基づくようされました。 人が神から宝「タラントンータレント」をそれぞれ頂いている、それぞれが宝なのです。タラントンのたとえのように土にうずめてそのままにしておくのは 神の望まれることではありません。人ぞれぞれの道で、他者の為に使うことを望まれていると思います。
そう理解できるようになって、最初の定義もなるほどと思えるようになりました。 そうして自分自身の言動の罪と他者を赦す気持ちが出てきました。 高慢かもしれませんが、本当に神に感謝です。
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