あーあいったよ…【KATSUO1973さんの健康管理カラダカラノート】

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10年06月03日(木)

あーあいったよ…

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【今日のできごと】
今日また、罪を犯しました。
今日仕事場で、目の前で自ら命を絶たれた方の話を笑って話されている二人を見て、すごくむかっ腹が立って、
さすがに今までいろいろ我慢して、我慢しきれず爆発してきた私ですが、「こいつは言ってやらないと絶対わからない」と
ついに言ってやりました。
「そういうこと言っていて、誰か身近で起こったらどうする。言っていると本当になるぞ。」
「自分の親しい人にそういう人が一人でもいればそういうことは言えね―はずだ」と。

上司宛(多分あの人たちも分かんないだろうなぁ)と本人のひとりにメールを出しました。
なぜ怒ったか。理由を書いて。

本当の隣人なら、そういうことを笑って話せるはずはないです。

私は自分の家族や友人を、彼ら彼女らが自ら与えられた命を投げ打っていった体験者の一人です。
また私も、今回怒らせたような人と同じ行為をして、辛い思い、いや罪を背負っています。
また昨今ここ10年、自ら命を絶つ人が3万人以上と、先進国ではワースト記録を更新しています。

たしかに私が言われたように(きたように)
「自殺するような親の子だからまともに育たない。しっかりしない。まともに仕事できない云々」
それは、今まで陰に陽に20年以上言われ続けてきたことです。

でもそういう貴方の息子や娘、奥さんや親兄弟姉妹、友達後輩先輩、更には部下、上司がそういうことをしたときに
「仕方がない」で済みません。これはそう思おうとしても、確実に残ります。

その人が弱かったから、その人の運命と片づけていいのでしょうか。
自然淘汰、彼や彼女が社会適応できなかったからと言い続けて、2000年以降30万人もの人の命をどうおもうのでしょうか。
戦争や災害で失われれば、追悼されます。
でも多くの宗教では、自ら命を絶った人たちは追悼すらされず、
忌避されています。その遺族にはもっとつらい仕打ちが陰に陽にあります。

でも私はこう思ってます。自分の家族が亡くなったのは、私の言葉の所為で、私が殺してしまった。
だから私が家族を殺した。その家族は絶対、天に行けると。地獄に行くなら私が行かなければならない。と。
そう思って、祈り続けています。

あえて言葉使いますが、自殺や自死は社会福祉政策や労働政策上の問題以前に、人間の尊厳、与えられた命の尊厳の問題です。
自分自身が大切に思うと同時に相手をもそう思うか、
社会全体『も』問われている問題です。
私たち自身。一人ひとり『も』問われている問題です。

いくら一昨秋から鈍化したと言え、まだ自ら命を絶つ人が大勢いることを、私たちは心すべきです。
少し鈍化したなどと、それが政府のお蔭などと傲慢なことをいう人がいれば、私は決して許すことができません。
それが本当に『命を大切にする政治?』。命を数勘定するだけなら、戦時中の赤紙(赤紙で集められる者の値打ちより弾の値打ちが高い)
の考え方と同じでないか。怒りすら感じました。(この発言が、流言で本当でないことを祈るばかりです。)

他の場所から見て裕福だと思われている地域で自ら命を絶ち人が多く、
大変な状況や搾取的な扱いを受けているような地域ではそういう人は逆に少ない
(まったく少ないとか、ないと言っているわけでないです。あしからず。)のが、この国の現状です。毎日100人以上、亡くなっているのです。

交通事故は予防できる。それは本人だけでない犠牲者が出るし、家族、会社にも迷惑がかかるから...と予防的な取り組みがされています。
自ら命を絶つのは法で禁じられていないから、自由ではという言葉を聞いたことがあります。
たしかにそうです。たしかに自由意思の究極の発露ですが、それを良しとするのが、人の道でしょうか。
自分がその立場に置かれたときどうするか。それは人それぞれのそれこそ自由意思です。

企業はなぜか減収なのに、増益という不思議な現象が起きてます。マクロとしては、国に経済が一昨秋からひと段落つけれたということでしょう。
でもその陰で、どれだけ多くの人たちの献身的な努力、無私の努力があることを、私たちは自覚すべきです。
企業努力という名のリストラやコストカットで多くの人が泣いていることも、自覚すべきです。

しかし、自殺や自死が結果的に自己決定の究極、自由意思、あるいは新たなカテゴリーで『病だから』と当事者やぞの家族だけの責任のように、
レッテルを貼り付けるのは、本当に人の道でしょうか。

子どもが井戸端に立って落ちそうな時助けるのが人の道、仁だと孟子は言われています。
新約聖書でもサマリア人の例えがあるように、色々な役務がある人たち、負い目があって決してふさわしいと思われていなかったサマリア人が、
盗賊に襲われ瀕死の人を助け、宿まで連れて行き、助けた例えが、イエス様の言葉で語られます。
法家や律法学者がいう法の文字ずらだけでない、根本です。

(中には聖職者に類する人で、そういう人を忌避し、『わたしたちのところにもう来ないで』とか『悪魔がついている』とかのたまう方もいます。律法に従順な方です。)

でも色々な律法は、出来ないからこそ定められていることかもしれません。
隣人を汝のように愛せよ...たしなめた、怒りをあらわにした私すらそれが出来ていません。
私自身が、今の環境、様々な状況を考慮して、厳しく仕事をして言ったり、人に接する中で多くの人を苦しめていると思ってます。
また私の言動で辛い思いをしている人はいると思います。それこそ死の間際まで思われている人がいるかもしれません。

こういう私には、祈ることしかできないかもしれません。色々考えましたが、それぐらいしかできない自分です。
どうか、親兄弟姉妹、子ども、孫、友達、彼女彼氏に「死んでしまえ!」とか「結果的に自殺を推奨するようなことは決して言わないでください」。
その言われた人は、その人以上に苦しみます。残された人も辛い思いをします。
本人も無論です。体験者として言います。

今どうかは知りませんが、少なくとも道ですれ違ったりしても、にらみ返したり、ガンを飛ばしているなどと思わず、
声かけるぐらいしてください。挨拶ぐらいもできると思います。

15年前、ロンドンで、わずか1週間の経験でしたが、まさにサマリア人の例えを実感したこと、何度とあります。
道に迷っていたり、コインを落としたり、両替に困っていたり、更に道ですれ違う朝や夕方の目を合わせた挨拶。
UKの人々の芯を見た気がします。
アメリカでもそうでした。
(一つ大きな皮肉を言えば、ファーストクラスやビジネスで海外旅行に何度もいけ、英語も流暢にしゃべれる、私の目の前で、自殺を笑い話にしたセレブリティには
絶対わからない感覚でしょうなぁ。)

本当の、民主政治の国、まさに英語の語源のように硬直した土地のような心でなく、耕されたやわらかな心の人々の雰囲気である文化と、
集まりである文明国になれるかどうか問われていると思います。

それは、決して武だけでは実現できない素養です。文弱と言われようと、武も文がなければただの粗暴です。
利だけで求めても取引は出来ますが、心まで満足させる商いにはならないと思います。

ちょっとしたことで大きなこと言ってますが、今日それを強く感じて、学ぶ機会を頂いたと思ってます。

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