Ayako_kさん
最新の記録ノート
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22年04月01日(金)
歓送迎会、転出者代表挨拶をする |
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< 花束を贈呈される
| 実家アパート見取り... >
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朝は、新しい職場であるH庁舎に顔を出す。 目的のほとんどは、挨拶菓子を置くことだ。 ついでに、通勤手当の申請もできたらいいなと、それくらい。 朝7時30分からフレックスタイムで働いていた若手職員がいたので、彼にお菓子の置き場所と、ここでのお茶のお湯汲みや茶殻の片づけが、当番制ではなく「気付いた人がやる」フリー制であることを教わるのと同時に、昨日作った通勤経路マップのスキャンの仕方を教えてもらう。 複合コピー機の「スキャン」を押すとスキャンされ、それぞれのノートパソコンに見えるようにフォルダが設定されている「スキャン」フォルダにそれが入るとのこと。 確かにそうだった。本庁だと、これをUSBメモリで取り出して、別のノートパソコンで申請しなければならないのだが、ここは1台のPCでできるようになっていた。 一応PCにデータを写し、データ名を整備して、業務イントラネットの中の「庶務」コーナーの「通勤届」というところを展開して、通勤届を作成。先ほどの「通勤経路」のPCFデータをアップロードして読み込ませて、申請。 なぜか、「期間」の欄が空欄、1カ月、3か月、6か月しかなくて、空欄だとエラーになる。 なんだこれ、と思いながらもとりあえず6か月を選択した。 隣のO君にも聞いてみるが、「3年前の新採の時にやったことなので……」と、過去データを探せない模様。 まああとで、人事課に聞くからいいさ。今は4月4日の締め切りとやらに遅れず申請して、取りっぱぐれないようにするほうが先決。 その作業中に、8;25から突然ラジオ体操の放送が流れる。全員体操を始める。 でも、よく聞いてると……「しば、つぎ左さひねって~」と、標準語ではない指示が、どこかのおじさんの地元弁で流れている。 ちなみに「しば」というのは、「しぇば」とも言い、標準語に直すなら「では」とか「それでは」に該当する。 何だこりゃ。 笑いをこらえながら、体操をする。 「しば、跳ねで~」 とか、ほのぼのと笑いを誘う。 これをみんなで黙々と聞きながら体操する。シュールな光景。 上司に、前もって言っておいたが、改めて通勤手当申請を電子申請で提出したことと、今日はこれで旧部署に戻って引継ぎをするので、ここでの勤務自体は来週からになる旨を口頭で伝え直す。 2階に行く、前に課税課の管理係でお世話になった、明るく優しく若くて美人なN嬢に挨拶。 そして、待っていた旦那の車に戻り、本庁舎へ。 会計年度職員のS君に、引継ぎをしていると、A主査がやってきた。 「引継ぎ用にわざわざ一日来てくれた訳だけれども、今、とても人出が足りないので、申し訳ないけど、今野さんでなければどうしても引き継げないことだけに限定して、短い時間で引継ぎを終わらせてくれないか」と言われる。 了承する。今はのどから手が出るほど働き手が欲しいところだろう。 昨日も「予定通り進まない」「1時間で3枚しか進まない」とかA主査とK係長が会話してるのを背中で聞いていた。 S君は昔、課税課の資産税係でも市民税係でも勤務経験があり、昨日までは住民課で住民基本台帳端末を触っていたそうなので、心強い。 住民基本台帳端末も、土地や家屋端末も同じソフトウェアの部分業務であり、起動の仕方や処理したい場所の探し方などは共通なので、話が早い。 即戦力になりそうでほっとした。 S君なら大体のことはこなせると判断。かいつまんで業務説明をする。 それでも11時位まではかかってしまった。 メインの引き継ぎ書には、巻末に「どの業務は誰に聞くといいか」の一覧表をつけておいた。 私の病気休暇中は、誰かが代わりに仕事をしていたし、今も半分くらいはそうやって代理続行中だ。 だから、私は自分が今年やった業務の、フォルダの置き場所やコツなどを中心に伝えた。 あと、会計年度職員の勤怠管理をもし受け持つのであれば、課税課のメールに「〇月〇日まで賃金計算票を提出」という最速メールが届いたりするので、会計年度職員といえども、個人メルアドは無くても、課のメールはチェックして、引き継いだ業務に関連する内容はUSBメモリで拾って保管しておくと良いとも伝えた。 さて、引継ぎは11時で終わった。もうすることが無い。 7km離れたF庁舎に戻って仕事するのも嫌だし、正直最近異動に関わる色々な準備で疲れが出てきている。正直横になりたい。 という訳で、11:15から年休を取った。 イントラネットで年休申請を出し、メールソフトのカレンダー欄に「年休 11:15~」と記入してから、F庁舎の上司に内線電話をかける。 「引継ぎは終わったのですが、異動準備などで疲れてしまったので、すみませんが今日は帰らせていただきます。年休申請を出し、メールソフトのカレンダー欄に11時15分より年休と書き込みました」 「メールソフトのほうにも書き込みしてくれたんだな。お疲れさん」 という訳で、旦那に迎えにきてもらうことにした。 なんとなく、女子休憩室で寝る気分にもなれず、1Fに降りた。 年度初めなので、住民課は混んでいる。 ロビーは、最近コロナ対策で椅子が取り除かれてしまって、まともに座れない。 仕方がないので外に出た。 さっき目に入っていた「珈琲」ののぼりのアンテナショップに行ってみる。 女性ばかり、列を作ってサンドイッチを購入していた。こりゃ無理だ。 仕方が無いので、近くの産業物産館の入ったビルの喫茶店に行く。 こちらは、従業員しかいなくて、空いていた。 一番安いブレンドコーヒーを頼む。396円。 ま、ショバ代だと我慢する。 道路の向かいが川なので、川自体は水位が低くて見えないが、景観は良い。 しばらくして、テルミーを終えた旦那が迎えに来てくれた。 帰宅して、枕元に部屋に置いてあったキッチンタオルを敷きまくって寝る。 夜に歓送迎会があるのでファンデーション落とすの面倒くさいし、ファンデーションはタオルなど衣類につくと洗うのが大変なので、こうやって寝た。 18:30から、歓送迎会。記念撮影をして、式典。 コロナ禍なので会食はなし。司会は幹事が勤め、課長からは転出者・昇進者・転入者の紹介。 私に関しては「平成27年度から評価係と管理係を通算7年勤め、主に評価額の回答と、会計年度職員の勤怠管理をしてもらいました。会計年度職員には優しく接し、イレギュラーな場面でもかれらのために積極的に働いてくださいました」と紹介していただいた。 ポンコツな私でも、少しは役に立てたのだろうか。 そして、課長の異動者紹介が終わり、いよいよ転出者挨拶。私が代表者挨拶をする場面が来てしまった。 以下に、その時読み上げた挨拶文を、名前だけはイニシアルに直したものを載せます。 「高い場所から失礼いたします。 皆様、お忙しい中、わたくしたちのためにお集りいただき、ありがとうございます。 本来でしたら、転出者全員のご挨拶となるところですが、このコロナ禍のご時世であるため、僭越ながら今年の転出者の中では最も高齢であるということにより、転出者を代表して挨拶させていただきます。
わたくし、あがり症であるため、アドリブが苦手なので、失礼ながら紙に書いた文面を読み上げさせていただきます。
転出者全員に、それぞれの物語があると思います。 全員にここで、語ってもらえないのは残念ではありますが、しおりの中に込められた言葉に、思いが凝縮されているものと思います。 私は、他の転出される方々の物語を、推測で語ることができるほどの洞察力がないため、自分の目線での思いでの話になってしまうことをお許し下さい。 思えば、平成27年にIさんと一緒に課税課に転入となったところから、私の課税課生活が始まりました。
当初は、課税課家屋評価係として配属になりました。現在は定年退職により勇退されましたO課長補佐(当時はO主査)と、I主査と私は、旧T市内では6学区、他の地区としてはI地区を受け持つ第6班のメンバーでした。この地域を3人で担当ということでした。IさんはI(地域名)出身で、運転しながらも「ここの家屋が建築中」「ここは未登記」など、パトロールも同時にされていて、すごいと思った記憶があります。 また、大ベテランのO主査(当時)は、建物を一目見ただけで、「ここは何間(けん)何尺」と即座に長さを言い当てられていて、神業かと思った記憶があります。「昔は方眼紙とエンピツだけ持って、一人で年件200件は測ったものだ」とのことでした。 (平成)27年5月からは、内部移動により、管理係に配属転換になりました。 この時は第一子の誕生が間近なSさんに、やさしく丁寧に管理係の業務を教えていただきました。 平成29年からは、また家屋評価係に戻りました。 令和元年6月には、大きい地震があり、I地区や海岸地区を中心に、家にひびが入ったり、屋根瓦などが落ちるなどの被害を受けたご家庭が多数あり、評価係では他の市町村職員から応援をもらいつつ、家屋の評価をしたり、記録を残したりという家屋の倒壊度判定の調査がありました。 応援してくださった他の市町村職員の方々の宿の手配とか、帰る時の(駅や空港までの)送迎とか、私が担当していない業務でもそういった声が飛び交っていた時期で、おそらく色々な段取りを立てながら、慣れない仕事を皆でこなしていったのではないかと思います。 そして、建築課で瓦被害の助成金を交付するために必要な書類として、り災証明の発行が暫定的に資産税係の担当となり、K課長補佐を筆頭に、M君や臨時職員の皆様と、連日り災証明の発行や処理、証明書の郵送などに明け暮れたのも、今はいい思い出です。 令和2年からは、世界的なコロナウイルス被害により、一時給付金などの配布のための連絡封筒の封入など、課税課だけでなく全職員一丸となって駆け抜けた仕事があり、窓口にはアクリルの板が立てられ、消毒液の常設が当たり前になり、また世界が変わったような気持になりました。 転出する皆さんの心の中には今、そのほかにも様々な思い出が去来しているものと思います。 色々なことがありましたが、わたしたちの心の中にはいつも、「市民の方々の役に立ちたい」という思いがあり、そのために力を合わせて、想定外の仕事にも邁進したものと思っております。 私は課税課の資産税係に配属になるまでは、住所と地番の違いもよく分からない状態でしたが、色々と勉強させていただくことができて、感謝しております。 人にも恵まれたと思います。 家屋評価の仕事を詳しく教えてくださったH主査、いつも相談に乗っていただいたS主査、土地の難しい問い合わせなどを丁寧に教えてくださったG主査など、沢山の方々に支えられて、今までこちらで務めることができました。 改めてお礼を申し上げます。 新しい職場に行っても、ここでの記憶を胸に、皆さんの笑顔を思い出しながら、がんばっていきたいと思います。 非常につたないあいさつで恐縮ですが、謹んで転出者代表のあいさつとさせていただきます。 皆様、ありがとうございました」 で、おじぎ。 司会者の指示により、壇上から席に戻る。 戻ったところで、隣の椅子のI君に、「綾子さんの挨拶、立派だっけの。俺も挨拶なんだ。どうしたらいいかのう」と言われた。 I君は、平成27年度、私と一緒に課税課にやって来た。 正直に言ってしまえば、人に優しいけれども若干優柔不断で、決定までに時間がかかるのと、ものごとをあまり深くまで調べないので、だんだん同僚との間で力量差が生まれ、周りの調査班の面々からは疎ましがられていたようだった。本人もそれを感じていたらしく、たまに飲みに突き合わされて愚痴を聞かされた記憶がある。 私自身もポンコツなので、多分喋りやすいのだろうと思う。 まあ、私もいつも世間一般様から見れば「出来ない組」のほうの外れモンで、いつもメインストリームから遠いところでポツンと華やかな一般人の皆さんを傍観しているような感じで過ごしてきた。 I君の今日の転入者挨拶には、「今日は書類の読み上げの仕事をしたが、細かい文字が読めなくなっていた。年齢を感じた」とのことだった。 そうか、それに気づくお年頃になったのね。私はここに来る数年前からもう、老眼が始まってたよ。 最後に、主幹が締めの1本締めを唱和して、終了。帰りは折り詰めのご馳走をみんなもらって帰る段取り。 A主査から声がかかった。「挨拶、感激しましたよ」 「A主査の名前を言わないでしまって、すみませんでした」と恐縮そうに答える。 まあ、私をここまでポンコツになるように追い込んだのはあんただからな。恨み言しか書けないから出る訳がない。 メンタルヘルス休みから明けてからは、私の事を内心うすらバカ扱いしてただろ。知らないとでも思っているのか。 り災証明の発行は、当時新採のM君と、1年で別部署に飛ばされる臨時職員と私とで回してて、マニュアルで対応できないところはK課長補佐に調整してもらってたんだ。 うちの部署、本来は夏は閑散期なのに、お陰であの年は毎日忙しくて、気が付くと秋だった。 本音を言えば、迷惑だった。 A主査に業務責任を追い込まれ、雪だるま式に増えていく業務の計画を何度も立てさせられ、思考回路が麻痺し、背中や腰が痛くなって、病休を取ったのが現実。 管理係にこれ以上おいておいてももうポンコツすぎて使い物にならないから、仕方なくて評価係に戻された。 評価係でも、復職が10月だったので、もう繁忙期に入っていて、今更家屋評価のイロハを教えてる余裕は無いから、現地調査は我々が行くから、「どこに何の調査に行って欲しい」という指示書だけは書いてくれと、平成29年度はIちゃんとHさん(挨拶のH主査)に言われ、そのようにした。Hは仕事はできるが情緒が若干不安定で、人への指示が辛辣すぎたり、逆に何も教えなかったりと、発達障害の気がある気難しい男で、ビクビクしながら過ごした。確かに仕事は色々教えてもらったが、怒りでも喜びでも大きい声をよく出す人で、聞いてるだけで不安になってくるので、早く物理的に離れたかった。 数年後、資産税係から住民税係に異動になり、同じフロアだけど数メートル机が遠ざかり、声がたまにしか聞こえなくなったので、正直ホッとした。 この人と関わるのは、年に1~2回で充分だ。 その他の人は、大体挨拶文に書いた通りで、本音とのギャップはない。 まあつまり、いい人もそれなりにいたけど、「このヤロウ」と恨み節が本音では消えない相手も数名おり、後はあまり関わらなかったその他大勢の人々がいた感じ。 家に帰れば脳内が本音モードに自然に切り替わってしまって、恨み節のほうが先に出てくるので、「建前脳」がなんとか機能してくれる仕事時間内に挨拶文を書かせてもらった。 どのみち私は職場内では「うつ病患者」なのだ。やるべきことはやっていたので、余り時間は腫れ物に触るような感じであまり人も接してこない。 それを逆利用させてもらった。 帰りがけ、S主査からは「名前を出してくださって、ありがとうございました」と言われた。 この人は、図書館時代も一緒に仕事をした。 あの頃から、他人の業務もきちんとチェックしてくれる、優秀なチェッカーだった。 他の人がメンタルを壊して異動していった、「読み聞かせ」業務も、おばさまボランティア集団のドロドロした確執を乗り越えて、耐えきった。 課税課に来て(本人は二度目の課税課)から、更に人当たりが丸く優しくなり、人としての懐の深さが増し、良い調整役として昇進していった。 私の体調不調による業務変更のお願いもすぐ対応してくれて、感謝している。 私の病休中は、会計年度職員の出退勤管理を代行してもらっていた。この方には本当に感謝している。 弁当は流石に、結婚式場にもなるホテルの弁当だけあって、豪華だった。 旦那と美味しく、自宅で頂いた。 正直に言えば、この課全体の歓送迎会、立食パーティーになりがち(一応椅子とテーブルはあるが、ほとんどの人がグラスとビール瓶を持って立ち上がってしまう)だったので、立ち続けるのも、どうでもいい会話をしなければいけないのも苦痛だったから、こういう歓送迎会はコロナ禍が終わってもこのスタイルを続けて欲しい。 コミュ障の私向けで良かった。 昨年は自分は異動当事者でも無かったし、まだ半日勤務がやっとの体調だったので欠席していた。 今年は出席して、なおかつ代表者挨拶まで全うできたから、他人から見れば当たり前かもしれないが、自分軸で見たら「よくここまで回復できました。マル〇です」と、自分に〇をつけて上げたい。 歓送迎会のしおりは、家に帰ってから読んだ。 歓送迎会中は緊張して、それどころではなかった。 読んでみると、私の挨拶以上に名文もあり、それぞれの人柄が浮かぶ文章だった。
さて、令和3年度のけじめはつけた。 週末は身体の調子を立て直して、来週からは新しい仕事にほどほどに頑張ろう。
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