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09年09月20日(日)
●[休]この多数的でフラットな社会で |
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公園でのんびりしたあと図書館へ。
僕はひたすら読書タイム。先日に引きつづき、東浩紀の対談集。 とくに斉藤環、大澤真幸との鼎談は、三者の立場がハッキリ出ていて刺激的でした (「シニシズムと動物化を超えて」2003、東浩紀『東浩紀コレクションD』2007 所収)。 以下、いくつか引用します。
《ネットによっていろんなものが即時的に繋がれて、距離的、時間的な落差がなくなって、なにが生じたかというと、多様性ではなくむしろ同質集団があちこちで出てきたにすぎないと。民族主義などのような、想像的な同質性で結びついたローカルな小集団がたくさん発生するという現象がまさに起きてきた。同じことを僕が若い世代のなかに典型的に見てとったのは、ひとを評価する基準がどんどん貧しくなっていて、結局、コミュニケーション強者とコミュニケーション弱者のあいだのギャップしか残らなかったという点なんです。そういうところで同質集団が育まれてくる。〔…〕1990年代以降繰り返されてきたグローバリゼーションの図式から抜け出すものがまだ見当たらないのかなという感じがします》(齋藤)。
《たとえば、日本でもインドでもヨーロッパでもアメリカでもヒットする映画を作ろうとしたら、高い宣伝費と派手な視聴覚刺激とわかりやすい物語に落とさざるを得ない。そうしたグローバルな大衆社会が実現したときに、地域性や文化性をどうやって守るのか、それはもはや、国民国家的なナショナリズムというよりも、画一性に対する多様性の、動物性に対する人間性の闘いのように見えてくるわけです。〔…〕動物性に対して人間性を守るという正しそうな問題が、とりあえず、スノッブでシニカルなナショナリズムの外見をまとって回帰してくるという現象ですね》(東)。
《天皇やイスラム教の教義に回帰しても、グローバル化した世界のなかでは、そのひとの生活になんらかの直接の利益や快楽があるわけではないですよね。それらは、むしろゴミみたいなものです。ほとんど必然性のないものをあえて要求していることになるわけですよ。そういうことを説明するには、単純な条件づけの回路とはもう一段階違うロジックがどうしても必要になってくると思うんです》。 《ひきこもりは欠如の欠如であるとすると、たしかに、動物性の水準に近づいているとも言えるし、僕の議論との関係で言えば、第三者の審級の効力が衰弱しているとも言える。だが、それを多重人格との対比で考えてみたらどうか。多重人格においては、ひきこもりと違ってトラウマがある、と斎藤さんはおっしゃった。〔…〕僕の言葉では、それは、第三者の審級が一旦排出されたところに、「帰ってきた第三者の審級」なんですよ。つまり、多重人格のような症例は、「そこにかつて象徴界があった」ということを前提にしないと、なかなか理解できない現象だと思うんです。象徴界が弱体化しているということについて僕は東さんと同じように思っているけれども、それでもなお、象徴界や第三者の審級を参照点として説明することには、有効性があると思う》。(大澤)
近年の東氏の立場は、自分にとって不可解なところもあったのですが、この対談を読んだことでかなり納得できた気がします。
《固有名に対して確定記述があって、それに対してもうひとつ固有名でも確定記述でもない匿名性を第三の選択肢として出すというのが、東さんの考えている戦略なわけですね》(大澤)。
《規律訓練型社会の牢獄から解放されるため、スキゾとかいって主体を分解してしまったら、つぎに来たモデルは多重人格化あるいは確定記述化=動物化だった。ところがこちらのほうがよほど環境管理的にコントロールされやすい。/〔…〕むしろ問題なのはこの多数的でフラットな社会に、いかにコントロールに対する抵抗の錨を下ろしていくかということだと思うんです。この場合のコントロールというのは、もはや国家権力の問題ではなくて、私たちの消費社会の原理そのものなんですが》(東)。
やっぱりこの人たち凄いなぁ、というのが第一の感想。 それ以上に、互いへの信頼感と緊張感とに支えられたヤリトリを読みながら、 「互いに理解しあえる人の存在は大事なんだなぁ」というコト、 ぽつり、思いました。
この多数的でフラットな社会で。
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| 【記録グラフ】 |
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