『啓蟄』 【野兎(やっと)さんの健康管理カラダカラノート】

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09年03月11日(水)

  『啓蟄』 

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【今日のできごと】

【今日の感想】   
スタートして、僅か10分で汗が腕を伝って落ちた。

服装は、いつもと同じの、下がトレーナー、上がランニング。
帽子は福知山マラソンで貰ったもの。
そして、100均の手袋(苦笑)

 今日は暖かい、雲ひとつない青空に太陽が輝いてる。
絶好のランニング日和だ。

でも惜しい。
富士は霞んでぼんやりとしか望めないのだなあ。



 20分後 雪が谷中学通過。

もみじが、紅い新芽を覗かせている。

はなみずきが裸木なのに、膨らんで春の気配の予兆を感じさせる。

ミモザが満開。
でもあの、ほのかな甘さを持った香りはして来ない。

さんしゅゆが次はワタシの番だとばかりに、小さいながらも精一杯に開き始めてる。


 40分後 多摩川到着。

とりあえず上流を目指してLSD。
   
 70分くらい走ると、前方にナニヤラ花の木が見えて来た!。

う~ん♪どうやら、桜みたいな樹形となんとも心楽しいピンク色(笑)
でもナア、この時期に桜とは信じがたい。

どんどん近づくにつれ、まごうことない。
その名は ”さくら”!

しかも2種類の桜だ。
一方は、今が満開。他方は、既に盛りを過ぎている。

さしづめ、河津桜と彼岸桜か?

思わぬ眼福にしばしボウとしてゼン。



   
100分後   体調と相談する。

今日は3週間ぶりのランだから、無理せんどいてぇ~という(笑)
花粉も舞っていると云うし・・・。
君子危うきに近寄らず。

それで、多摩川橋から14Kmの地点で引き返す。

 清掃工場の煙突あたりに来ると、潮の香りがする。
   
今日はあの有名な歌:
「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花. 主なしとて 春なわすれそ 」で知られる東風が吹いてる。
んなので、東京湾の潮の香りがここまでくるのだろうなあ。
   

140分後 ここで、道草(またまた、笑)

  葦の陰から川岸に近づくと、驚いたのか鴨の群れが、いっせいに羽ばたいて遠ざかろうとする。
   
「やあ、ごめんごめん、何もしないから、行かないでくれ」
と、野兎の願いが届いたのか5mくらい去ったのみで羽を休める。

澪(みお)を引き 遠ざかるらむ 鴨七羽
                                           野兎    


あたりの景色をシバシ、観察。
というか、野兎の得意のぼけモードに突入。
これぞ、癒しの真骨頂で、無心。
何も考えない(笑)

 150分後 気がつくと、逃げていった鴨の群れが、風に吹き寄せられて再び近寄って来てる。
    
好むと、好まざるとにかかわらずですぞ。
    
多分、彼(彼女)らにとっては、野兎が凶暴に思えて、不本意でせうがね。

 見ると、皆が宝塚のラインダンスの如く同期を取って水面を上下してる。
    
長閑だなあ。
水もぬるんで来たようだ。
 
   鴨七羽  群れて揺れてる 水面(みなも)かな 
                                              野兎 
ふと足元を見るとミミズがのたくってる。

佳き、啓蟄の一日が始まった。



【記録グラフ】
ジョギング
180分
ジョギング(分) のグラフ
   
コメント
flo 2009/03/11 22:22
ランニングしていて気持ちの良い景色ですね~。
歩いていても景色の良いところは、元気に歩けますよね。
longingly8 2009/03/26 01:44
野兎さん、今日こんな↓記事を見つけました。
         ◇
「仏教は死んだ人を弔う為のものだと思っていませんか?
 実は、本来、仏教とは「どう生きるべきか?」を問う人生哲学なのです。

  ブッダが悟りを開くシーンは「リトルブッダ」という映画に以下のように描かれています。 

 古代インドの王家に生まれたシッダルータ王子は城の中で何不自由のない生活をしていました。
 29歳になったある日、初めて城の外を見て、人々の苦しみを知り、また、死というものを知りました。
 意を決したシッダルータは王子という肩書きや家族を捨て、
 人々の苦しみを救う為の真理を探す旅へ出かけます(出家)。

 シッダルータは苦しみを知り尽くせば悟りが開けると考え、苦行者と共に過ごします。
 河べりの菩提樹の下で座禅を組む事6年間。しかし、悟りは開けませんでした。
 ある日の事、河を行き交う舟の上から弦楽の調べと共に話し声が聞こえてきました。
 それは旅の弦楽者の師と弟子の会話でした。

「弦は強く張りすぎると切れてしまうが、ゆる過ぎても良い音色は出ない・・」。
その時、シッダルータは気づきました。

「そうか私の過去の生活は緩んだ弦だった。
 今は張りすぎた弦である。
 その両極端を突き詰めても真の幸せは訪れないのだ・・・」

 これが「中道」という悟りを開いた瞬間です。
 悟りを開いたシッダルータはブッダ(悟りを開きし者)となり人々を救った。…と言うものです。

 ここで大切なのは極端(偏り)を突き詰めた所に真の幸せは無いという事です。
 しかし、私、Dr.Nが訪れたモンゴルの国境・スンベル村では
 電気・ガス・水道・風呂がなかったにもかかわらず、皆楽しく生活していました。
 もちろん飢餓状態では生活もできません。
 「中道」という哲学の意味する所は「極端を排除した、その人に合った”ころあい”」という事なのです。 
             ◇
 私はお葬式は生き残っている人のためにすると聞いたことがあります。
 それにより心が穏やかになるようにかなと勝手に解釈していますが。
野兎(やっと) 2009/03/28 09:03
まあ、Dr.N なる人がどんな方かは、
存じ上げませぬけど。

寺が葬式を請け負うようになって以来
堕落し始めたという意見もごぜえますなあ。

それには色々な曲折があったから、
仕様がなくもないという、捉え方を野兎はしてます。


では、では。   de  野兎

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