●[休]水色――あるいは現実と抽象について【わかりもんさんの健康管理カラダカラノート】

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09年10月05日(月)

●[休]水色――あるいは現実と抽象について

< ●[休]豊田三郎記...  | ○凛として時雨 >
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ブランキー・ジェット・シティの曲から通勤用のCDを作成。9月に撮ったデジカメ写真を整理。
そして、軽くシャワーを浴びたあと、軽めの本を2冊交互に読んでいると、Efさんからメール。
いつもの場所で待ち合わせのあと、ミスド→マクド→自遊空間と学生のような、まったりコース。

でも、思春期特有のヒリヒリ感を抽出したかのようなBJCの音の余熱、
さっきの本の《この十年は何だったのか》という言葉に触発された焦燥感、
学生のころを思いだしてしまうファーストフード店特有の空気、
少し不安げなEfさんの様子、
そんなものたちが混じりあって、忘れかけていた、妙な「せつなさ」を覚えてしまいました。

本当は、本当に大切なことほど、伝えることはできない。
なにか、そんな漠とした、せつなさ。
そんなせつなさのなかで、ちょっと大人げなく、今日は余計なことまで話してしまったかもしれません。

本当は、本当に大切なことほど、伝えることはできない。
このあとにつづく言葉は「だから」であると同時に「だけど」でもあって、そして、
それが、たとえばスピノザやドゥルーズのような人が存在してしまう理由のような、
そんな気がしています。

「現実」と「抽象」を振りわけることができると思っている人たちは、たぶん豚のように幸せなのだと思います。
現実に深く存在を削られた人以外に、それでも現実を捨てられない人以外に、誰が抽象なんてものを必要とするんだと思っているんだろう。
そもそも僕たちが「現実」だと言っていることの大半も、所詮は誰かの口真似にすぎず、いわば「すりきれた抽象論」にすぎないというのに。

どうして他人のことを親のように心配できる人ほど、誰かを情緒的に管理したがるんだろう。
家族という抽象(あるいは拡張された家族としての国家や社会)を愛する人と、官僚的にふるまう人とは、どうしてこんなに重なってしまうんだろう。
「こころ」の大切さを話したがる人ほど、ひとの感じ方に無神経なのは、なぜなんだろう。

今日読んだ十年前の本の言葉。十年たっても変わらない風景、変わらない空しさ。
《「……現実と仮想現実との区別がつかない若者が増えているのは、根深い社会問題です」というのがやはり世間の"常識"なのだろうか? この十年は何だったのか、という空しさにおそわれる》(香山リカ『「こころの時代」解体新書』、2000、創出版)。

《九八年一二月の宅配青酸事件で送り主であったと見られる青年が開いていた掲示板「ドクター・キリコの診療室」においても、『自殺マニュアル』が何度となく引用されている。しかし、手に入る資料を見る限り「死や自殺が日常的に語られているとは恐ろしい」という識者のコメントにあるようなおどろおどろしさは微塵もなく、「この薬はどうでしょう」「それはベンゾジアゼビン系の薬物ですから、動物実験のデータによると……」といったノンヒューマンな"科学的対話"が淡々と続くだけである。もちろん、参加者の根本にあるのは「この世界は生きにくい」という閉塞感や絶望感なのだろうが、「君もつらかったんだろう。でも生きていこうよ」といった"相田みつを史観"は彼らをより苦しめこそすれ、何の救いにもならないのは明らかだ。〔…〕では、ベタベタのヒューマニズムを排したところでこそ保たれていた「ドクター・キリコの診療室」の安寧がなぜ、破綻してしまったのか》(香山前掲書)。

「この十年は何だったのか」、そして「なぜ」という十年前の言葉は、いまの僕には、妙に胸にきます。
その言葉には「十年前にみえた風景、それ以上の何かに自分は出会えたんだろうか」という問いかけも重なってきます。
十年前といえば、浅田彰らのニューアカや新人類世代の人たちが、雪崩をうって「論壇」的な「現実」に流されはじめた時期。
そして、あるいは僕にとっても、この十年間は、たんに脆弱な抽象が「現実」に浸食されつづけただけの時間なのかもしれません。

《それにしても、浅田氏には愚劣な大衆に絶望してますます棲み分けを強化する、という方法もあったはずだが、なぜここに来て突然〔大衆ジャーナリズムの世界で〕蜂起したのか。しかも、よく読めばその発言は棲み分けの自分の側の方、つまりエリートを大衆迎合主義から守れ、と言っているだけにも見える。それをなぜ「福田的語り」で広く伝えようとしたのか。/でも、こうやって一生懸命、考えることじたい、お人好しなのかもしれない。ある人(あまり論壇には興味のない人)はズバリこう言った。「その浅田って人も、単にオヤジになったんだよ」。そうか。それだけなのか……》(香山前掲書)。

「オヤジ化」に抵抗するのは、思った以上に大変なことかもしれません。

《[東]とはいえ、僕たちの世代固有の経験というものもあって、それがポストモダニズムの残光ですね〔…〕/[北田]柄谷さんが「壊れて」いくのをずーっと見つづけていた……(笑)。/[東]いや、本当にね……。これ、触れないでおこうかと思ったんだけど、北田さんの『広告の誕生』のあとがきに「『隠喩としての建築』の著者はすでに『探究Ⅲ』を書き始めていた」っていうのがあるじゃないですか。「すでに」ね。この感覚はすごくよくわかる。あの辛さは忘れたい(笑)》(東浩紀+北田暁大+鈴木謙介「リベラリズムと動物化のあいだで」、東『波状言論S改』2005、青土社)。

こう言っていた東浩紀も、最近少しずつスタンスを変えつつあるのを感じています。

《思い出は 雪だから すきとおった水へ 帰ってゆくだけ /
 いつの日にか みんなどこかへ 消えてしまう気がする
 伝えなくちゃ すなおなその気持ちを 今すぐ》(BJC「水色」)

妙に時間の流れの残酷さを感じる、秋の日です。



【記録グラフ】
腕立て伏せ
0回
腕立て伏せ(回) のグラフ
万歩計
7309歩
万歩計(歩) のグラフ
スクワット
0回
スクワット(回) のグラフ
腹筋
0回
腹筋(回) のグラフ
体脂肪率
22%
体脂肪率(%) のグラフ
カロリー比較
カロリー比較(kcal) のグラフ
食事の記録
2708kcal
食事の記録(kcal) のグラフ
体重
58kg
体重(kg) のグラフ
 
【食事の記録】
7時
サバの塩焼き(1人前) 255 kcal
ご飯(1人前) 235 kcal
10時
森永 パリパリバー(2人前) 168 kcal
森永乳業 パルム バニラ(1人前) 140 kcal
12時
焼きそば(1人前) 634 kcal
15時
ミスタードーナツ ショコラフレンチ(1人前) 165 kcal
ミスド カフェオレ(1人前) 59 kcal
18時
マクドナルド マックポーク(1人前) 391 kcal
マクドナルド マックフライポテト S(1人前) 230 kcal
マクドナルド マクドナルド ナゲット(1人前) 256 kcal
23時
Lipton ミルクティ(1人前) 175 kcal
  2708 kcal
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