わかりもんさん
最新の記録ノート
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09年04月05日(日)
「崩壊」について |
< 宿直しながら、「先...
| 高架線、竹馬、満開... >
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宿直明け。8時に泊まりの団体がお帰りのため、慌ただしい朝。引き継ぎのあと一時帰宅。リビングのパソコンの調整。
昼はHと11時に岩本屋でラーメン。久しぶりのつけ麺は美味しいし、店員はみんな元気だし、とくに女の子はかわいいし、やっぱりいい店だなぁ。並んでるお客さんの列が相変わらずスゴイ。しかし、つけ麺大盛一杯でおなか一杯になるとは、僕も数年前に比べるとだいぶ低燃費になりました。で、食事のあとはすぐ解散。H氏は昨日の電話では話したいことがある様子だったけど、会ってみるといつもの雰囲気。話をしていると、やっぱり彼には「他人の幸せと自分の幸せを天秤にかける」悪い癖がある。承認の欲望が強いのは、充実する反面、結構疲れるだろうな。この点は彼女できたら絶対安定するはず。幸運を祈ります。
5時間ほどミスドで読書。ジャミソンの『早すぎる夜の訪れ』再読終了。途中、偶然隣の席でF大の探究サポの子たちが「新勧コンパ」の打ち合わせをしていて面白かった。よっぽど勧誘しようと思ったけど、あいにくこちらは宿直明けのボサボサ頭で「自殺の研究」読んでる真っ最中。あまりに印象悪そうなので活動自粛しました。で、本の話に移ると、躁鬱病や自殺と向きあう著者の姿勢には、人間への信頼を与えられた気がしています。つくられた明るさよりも素直な誠実さのほうが、人に元気をくれる。それがこの本から一番教えられたこと。後半の抗鬱剤や自死遺族の問題にかんする章はいろいろ蒙を啓かれた。ここ半年ほどドゥルーズの『意味の論理学』のブスケやフィッツジェラルドの章に魅了されているけど、もう少し深く読んでいくことができるかもしれない。この本については後日、整理してノートを作る予定。
ここで改めて思うのだけど、ドゥルーズって人は友達に紹介するのがとても難しい。80年代の現代思想ブームで軽薄なイメージがついてしまった上に、イメージ喚起力がありすぎる文体が二重三重の誤解を生んでいると思う。たとえば彼の「ヴァーチャリティ」って概念も「マトリクス」の世界観なんかとゴッチャにされやすい。ここ十年で会った人のうち唯一人ドゥルーズの名を知っていたM君も、そんなふうに考えてた。実際には彼のいうヴァーチャリティは、スピノザの実体に等しく、あの映画で描かれていたような安直な仮想現実論やヒロイズムを打ち砕いてしまうものなのに。
他方、彼のことを簡単に要約しようとしても、「レジスタンスで兄を失い、重度のアルコール依存に陥る一方、病で肺機能の大半を失い、そのなかで狂気や倒錯の芸術家や非正統的哲学者をモチーフにした難解な本を世に送り、さらには革命的な精神分析家とともに『ロマンチックな』分裂症論を書くものの、最後は妻と娘を残したまま病苦のなかで自殺を遂げてしまった形而上学者」と、こんな具合になってしまいそうだ。これじゃ、たとえば教え子相手に喜々として「動物になること」の話をしてるときの彼の雰囲気とか、少しも伝わらないだろうな。その映像のなかでもインタビュアーの女性が煙草をふかしていた。肺病病みで自分は煙草を吸えないくせに、ドゥルーズの講義はいつも学生たちの煙草の匂いで充満していたという。「それを自然と許してしまう空気をもった人なんだな」と思ったとき、彼の本がもつあの奇妙な魅力のこと、ちょっと納得できる気がした。
「スキゾ」の流行で見えにくくなってしまったけど、そもそも彼は分裂気質からは遠く、むしろ躁鬱病に親しい人ではないかと僕は思う。だからこそ、分裂病にいたるプロセスのなかにポジティブで革命的な要素を見つけることも可能だった。デリダも追悼文で『意味の論理学』を引用していたけれど、やはり、あれが彼が一番率直に自分のことを書いた本なんじゃないだろうか。あの章はフィッツジェラルドの引用から始まっていた。「もちろん生とは崩壊の過程である」と。それが彼にとって「ハンマーを頭に響かせる」現実だった。と同時に、彼の哲学の出発点だった。というのは、彼の本はそれを説明するために書かれているのではなく、その「もちろん」から始められているということ。その「もちろん」から始まる「そして」「けれど」、そして「それゆえに」が、彼の文章の下には無言のうちに流れている。そんな気がする。ドゥルーズの分かりにくさは、彼の天才や文体のことを差しひいても、当然のものなのかもしれない。
彼の本を読むたび、謎に出会う。と同時に、僕はこの人が好きなんだなと思う。そして、好きなもの、大事なものにかぎって人に届けることが難しいことを、少しだけ淋しく思う。誰でもそんなものかもしれない。でも、こういうところは簡単に「大人」にはなりたくないな。
夕食後ウトウト。目がさめれば9時。Fさんからの電話に気づかず、御機嫌損ねちゃった。また借りができちゃったな。明日会ったとき、何かの形で返したい。態度が曖昧になってしまうのは悪いけれど、自分の役柄を決められるだけの情報と状況がないです。人の気持ちに鈍感な自分がチョット歯痒い。それに、少なくとも今の僕は、人に期待したり、何かを期待されたりするのには向いていない気がしてる。
1週間ほどゆっくり日記を書く時間がなくて、下書き状態にしてた。今日明日の連休で整理しながら、振りかえってみてもいいかな、と思う。
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