わかりもんさん
最新の記録ノート
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09年04月11日(土)
永遠の相のもとに? |
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久しぶりの休日。快晴です。 二度寝で朝寝坊。心地いいです。 朝のテレビ小説の音で目が覚めるのって、なんか「有閑貴族」って感じで(?)優越感にひたれます。 (^-^)
午前中は、日記の下書きノートをまとめながら、この一週間を整理。 この半月ほど全然「日記」になってませんが、おちついてきたら自然に「日記」に戻るはず。
だよね。
・・・はやく戻りたいよぅ。
そろそろ図書館で借りた本の期限だけど、当然のごとく、ほとんどの本が「つまみ食い」状態。 つみあがった背表紙見てるだけで結構な満腹感です。 できなかったことを思いだして、チョット胃がいたくなってくるほどです。 ま、時間がかかっても、ここまで温めてきたテーマだから、腐る心配はないヨね。 おなか壊さないように、のんびり、楽しも。
今週はとりあえず『ドゥルーズ/ガタリの現在』の、気にかかるタイトルから手をつけるつもり。
ドゥルーズのスピノザ解釈は本当に見事だと思うけど、ずっと分からないのは、彼がスピノザの「永遠」について、どんなふうに考えていたかということ。 《身体の本質を永遠の相のもとに表現するこの観念は、……精神の本質に属する必然的に永遠なる一定の思惟の様態である》って、アレです。 スピノザの「永遠」って、普通にいう安っぽい永遠とは違って、とってもリアルなものだと思う。 たとえば、さきほどの続きに書かれている文章は、ラカンの「現実界」やジジェクの「トラウマ的なものの核」について連想させます。
《しかし私たちは身体以前にすでに存在していたことを想起することはできない。身体の中にそれについての痕跡は何も存しえないし、また永遠性は時間によって規定されず、時間とは何の関係も有しえないからである。しかしそれにもかかわらず私たちは永遠を感じ且つ経験する。精神は知性によって理解する事柄を、想起する事柄と同等に感ずるからである。すなわち、ものを見、且つ観察する精神の眼がその証明そのものである》(『エチカ』第5部定理23備考)。
ここでドゥルーズに戻れば、こうした「せつない」永遠性を考察した結果が、アイオーンの問題系になるのかもね。
「species aeternitatis」を「永遠の相」と訳してしまうと、どうしても「理性的な世界観」って印象が強くなっちゃう。でも、たとえばアガンベンを読んでいると、「species aeternitatis」って、なにか、とても「せつない」ものだって感じる。もっとも、それはたとえば安吾がいうような「せつなさ」だけど(そういえば安吾も、学生のときの論文でスピノザの「永遠と時間」のことを考えてたっけ)。
《鏡は、私たちが像をもっていることを発見すると同時に、それが私たちから分離されうるということ、私たちの「外観」あるいはイマーゴが私たちには属していないことを私たちが発見する場所でもある。像を知覚することとそのなかに自分を認知することとのあいだには中断があり、中世の詩人たちはこの中断を愛と呼んでいた。・・・・・・speciesとはこの意味においては強度以外のなにものでもありえない。あらゆる存在が自らを欲し、自らの存在を持続させ、自らの意思を伝達することを欲するさいの、愛そのものにほかならない。像のなかでは、あることと欲すること、存在と欲望とが完全に一致する。他者の存在を愛するということは、そのspeciesを欲するということである》(アガンベン『涜神』)。
こんなことを考えながら読みはじめています。
午後になったら、愛車にガソリン入れてやって、タイヤをかえてあげるつもり。 僕も燃料入れて、お気にいりの服を探しにいこう。 のんびりしよう。
最後に、長くなったついでに、アガンベンの前掲書から、好きな言葉をもう少し。 彼の本を読んでいると、species aeternitatisを「いつまでたっても消えない言葉」とか「音楽」とかって意訳したくなるけど、 僕も何かを信じるなら、「誰か」ではなく、そんな、誰かの中の「何か」を信じたいな。
《実際にも、species的であるのは、誰かに似ているのではなくて、他のすべての人たちに似ている存在――顔、身振り、出来事――である。species的な存在は甘美であるが、それは自らをすぐれて共通の利用に供しながら、しかしまた個人的な所有の対象とはならないからである。これに対して、個人的なものにかんしては、使用も享受もありえず、ありうるのは所有と嫉妬だけである》。
《species的な存在は自らの伝達可能性だけを伝達する》。
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