yukatrollさん
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22年11月12日(土)
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お母さんの身体とお別れの日。
こんなこと言うと、アッタマどうかしちゃったの?って思われちゃうかもしれないけれど、 ち〜っとも。 ぜ〜んぜん。 悲しくなかった。
悲しみは、 彼女がグループホームに入った直後、 コロナ大流行で会えなくなった時、 その後の二年の間、 ずっと悲しかった。
一人暮らしに無理がでてきて、 でもウチはエレベーターのない雲階に住んでて、 母にはとうてい暮らせない環境で、 転勤族だから、そのアパートもいつまでいるのかわからないし、 この次、どこに転勤になるかもわからないし、 だから実家のあるまほろで探したグループホーム。 入った途端、コロナ禍の悪影響で面会ができなくなってしまい果てた。
母にもわたしにも良かれと思い、 最善を尽くして良い結果だと思っていたのに大誤算。
今、冷静に考えれば、 間違っちゃいなかった。 本当にあの時はベストを尽くしたし、 それ以上は望めなかった。 けど、まさか丸一年半会えなくなるとは思うわけもなく。 その間に母の認知症は徐々に徐々に進んで、 最後までわたしのことはわかっていたけれど、 気力も体力もなくなっていくのを遠くから見るのが辛かった。
その間、 たくさん泣いた。
今年の春以降、 また会えるようになってからは、 少しずつ衰えていくのを見て、 ちょっとずつ覚悟しつつ、やっぱり泣いた。 取り戻せない一年半を思って泣いた。
夏に第七波でまた会えなくなって、 秋に再会した時には、足腰が立たなくなっていた。 それからの10月。 行ったり来たりしながら、 いよいよだな。。。。って思って泣いた。
そのわたしに母がくれた最後の一週間だった。 毎日、話しかけながら、 髪をとかして、 アタマをマッサージして、 目の周りを清浄綿でキレイにして、 鼻の穴もついでにキレイにして、 爪はきれいにやすりをかけてピカピカにして、 乾燥して粉の吹く腕や脚をマッサージして、 クリームをペタペタ塗って、、、 母が寝ていようが、起きていようが構わず、 ベタベタ、イチャイチャしながらグルーミングして過ごした。
そして肝心なのは、 母が望んでいないのに無理に食べさせたり、飲ませたり、 治療をしたりとかをしないで寄り添うことができた。 老衰の自然死を覚悟を持って見守ることができた。
わたしが介護の教育を受けた時は、 なんとか'生かし続ける'のが主流だったと思う(あくまでわたしの主観です)。 もう食べないで眠り続ける老人を起こして、 スプーンでペースト状の食事を提供した。 介護施設でそれが出来なくなると、 胃瘻という治療をしてお腹に開けた穴から食べ物を入れた。 喉が渇いていようが渇いていまいが関係なしに水分補給をした。 そしてそれも出来なくなると、病院で治療をした。 治療を! 80歳を優に超えた老人に。
介護の仕事をしながら、 ずっとなんか変だと思っていた。 食べたい人の食事介助は楽しかったけれど、 食べるのをもうやめようとしている人に食べさせる仕事は わたしは大嫌いだった。 なんか不自然で、フツーじゃないよ。。。と思っていた。
だから、母には常々、 お母さんはこの家で死ぬんだよ。 痛い、苦しいがあったら、ちゃんと先生に診てもらうけれど、 自然にもう食べられなくなって死ぬ時に、 無理やり食べさせたり、点滴したりしないからね。 と言っていたし、母もそれを望んでいた。
で、その家には住んでいられなくなっちゃったけれど、 グループホームという最後の母の住まいで、 自然に息を引きとる時に一緒に過ごせた。 長い経験と深いお心の先生のおかげ。 理解と実行力のある施設長のおかげ。 元気に笑顔で手助けしてくださった職員さんのおかげ。 ここには書ききれていないけれど、 わたしをサポートして助けてくれた皆さんのおかげ。 本当に有り難い。 母との別れよりも、その方々の熱い想いに嬉しい涙が湧いてくる。
そんな話をゆっくりと話すことができた、良いお別れの一日だった。
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